ナガエ

哀愁しんでれらのナガエのレビュー・感想・評価

哀愁しんでれら(2021年製作の映画)
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いやー、なかなかやべぇ映画だった。
しかもこの映画、ラストがヤバいっていうのは誰もが一致すると思うんだけど、それ以外のヤバさについては、観てる人によって何が引っかかって何が引っかからないか、だいぶ変わりそうな気がする。

【女の子は誰でも、漠然とした不安を抱えている。私は、幸せになれるのだろうか】

映画の冒頭の方で、面白いことを言っている人物が登場した。幸せになるための、絶対の方程式がある、というのだ。それは、夢も希望も全部手放すことだ、と。

なるほど、一理あると思った。

実際のところは、夢や希望があってもいい。その種類による。その自分の持っている夢が、「誰かに羨ましがられたい」という願望から来るものであるなら、それは捨てないとなかなか幸せにはなれないだろう。しかし、他人の存在なんか関係なく、自分はその夢を追っている状態も、夢が仮に叶わなかったとした未来も、丸ごと全部受け入れた上でその夢を追いたい、というような夢があるのなら、それは幸せに繋がる道だろう。

幸せって難しいなぁ、と思った。

主人公の小春と同じ立場にいて、幸せだと感じられる人ももちろんいると思う。しかしそれは、この映画の設定で言えば、母親失格になる、ということだ。失格になってしまうとだめだから、不合格ぐらいにしておこう。小春も、母親不合格、ぐらいの立ち位置で自分を納得させることができていれば、たぶん幸せにいられただろう。

しかし小春は、母親に棄てられた過去があり、仕事でも、児童相談所の職員として育児放棄をする母親をたくさん見てきた。だから、「ちゃんとした母親になる」ことが、彼女にとって幸せの最大の要素になってしまう。

しかし、「ちゃんとした母親」ってなんだろう?

「母親」という存在は様々な側面があって、そのすべてを満点に出来る人はいない。きちんと出来ている部分に光を当てれば「良い母親」になれるし、きちんと出来ていない部分に光が当たれば「悪い母親」と見られてしまうだけの話だ。そして、世の中はどんどんと不寛容になっているし、特に、恵まれている(と見える)人へのやっかみみたいなのが増幅されてしまう世の中でもあるから、やっかみが強ければ強いほど、きちんと出来ていない部分をフォーカスされてしまう。

もちろん、小春に非がまったく無いとは思わない。結果論的な言い方にどうしてもなってしまうけど、分岐点となるポイントで少し違った行動を取っていれば、あのラストにはたどり着かなかったかもしれない。というか、どういうルートを通っていようが、あのラストに辿り着く道は普通は見えない(存在に気づかない)はずだから、弁解の余地は無いと言えば無いんだけど。

「幸せ」も「正しさ」も人の数だけあって、それはその通りなんだけど、でもふと気がつくと、「不幸ではない」ことを「幸せ」と言っていたり、「間違っていない」ことを「正しい」と考えている自分に気づいたりする。本来、それは違うもののはずなのだけど、自分が見ている現実が少しずつ歪んでいくことで、「不幸せではない」と「幸せ」の境界線が、あるいは「間違っていない」と「正しい」の境界線が見えなくなってしまうことがある。

小春も大悟も、ラストは完璧に間違えている。一点の曇りもなく。しかし、最初から間違っていたわけではない。小春も大悟も、「正しい」というスタートラインに立っていたし、その後も、「正しい」選択肢を出来るだけ選んでいたはずだ。しかし途中から、「間違っていない」が紛れ込んでくる。そして、「間違っていない」を選び続けることで現実は少しずつ歪んでいき、その積み重ねによって「間違い」にたどり着いてしまう。

「幸せ」や「正しい」を選んでいるつもりで、いつしか「不幸ではない」「間違っていない」を選び取っているというのは、日常の中でも起こりうることだと感じたし、そういう意味で、非常に恐ろしい映画だと思った。

内容に入ろうと思います。
児童相談所で働く小春は、自転車屋を営む父と、受験を控えた妹、そして病気がちな祖父の四人暮らし。母親は、小春が10歳の時に理由も分からず出ていってしまった。仕事では大変なことも多いし、ろくでもない母親に苛立ちを覚えることもあるけど、特に可もなく不可もないという生活をしていた。
しかしある日、祖父が風呂場で倒れたことをきっかけに、ドミノ倒しのように不幸が立て続けに一家を襲い、失意のまま近くに住む彼氏の家に行くと、職場の先輩女性とセックスの真っ最中という現場に鉢合わせてしまう。踏んだり蹴ったりの最低な夜にトボトボ歩いていると、踏切で横たわる男性を発見。小春はその男性を助け、介抱してあげる。後でお礼を、と言ってもらった名刺には、開業医の院長と書かれていた。大悟は、8歳の娘を男手一つで育てる大金持ちであり、小春は大悟に誘われた食事の席で娘のヒカリと仲良くなり、それもきっかけとなって二人は結婚することになる。
最悪な一夜から一転、誰もが羨む玉の輿に乗った小春だったが…。
というような話です。

タイトルに「しんでれら」とあるように、物語は当初、おとぎ話のようにトントン拍子に進んでいきます。そこはリアリティがないと言えばないんですけど、この映画の本質的な部分ではないので、むしろ非常にテンポ良く進んでいいなと思いました。パッパッパと場面を切り替えるようにしてトントントンと物語が展開し、あっという間に結婚という運びになります。

物語としてはここからが重要。そして、主人公が金持ちであるという点を除けば、ここで描かれていることって、誰に起こってもおかしくないようなものであると感じました。この映画において、主人公が金持ちだという要素は、「シンデレラ感」を醸し出すための記号みたいなもので、物語そのものにはさほど大きな影響はありません。主人公が医者であるということが重要になる場面はあるんですけど、主人公が金持ちであることが重要な場面というのは、なかったんじゃないかなと思います。そういう意味では、どの家族に起こってもおかしくはないんじゃないかと思います。

観客は、ヒカリや大悟がどこで何をしているのかという描写も見れるわけで、そういう情報を全体的に考慮して考えればまた違った結論が出るでしょう。しかし、小春と同じ情報しか得られなかった場合、取るべき行動に悩むだろうと思います。先程、「結果論的に言えば小春に非が無かったとは言えない」みたいなことを書きましたけど、小春の立場でリアルタイムに様々な判断をしていかなければならないとした場合、小春と同じような行動を取ってしまう可能性は十分にあると思います(ラストはともかく。さすがにラストの選択はしないと思いますけど)。

だから僕としては、小春に対しては、大変だな、可哀相だな、という感想になります。

これは、僕が男だからなのかはなんとも分からないけど、僕は大悟がヤバいと思いました。大悟、やべぇな。最後まで映画を見ると、大悟の最初の奥さんに対する印象(最初の奥さんは、写真でしか登場しませんけど)も変わってくるな、と。同情の余地があるのではないか、と。

大悟と小春では、物事の選択の仕方が違うと思いました。小春は、積極的に「正しい」を選び、積極的に「間違っていない」は遠ざけるタイプだと思います。しかし大悟には、「正しい」と「間違っていない」の境界線が元々存在しない。確かに大悟は、「明らかに間違っていること」をしているわけではないから、その歪みが見えにくいのだと思う。しかし、小春が積極的に「間違っていない」を遠ざけようとしているのに対して、大悟は、「正しい」と「間違っていない」の境界線がない故に、判断の端々に違和感が残る。確かに大悟の選択は、「間違っていないを含むという意味で正しい」ものであり、表立って糾弾するようなものではない。なのだけど、じわじわと違和感が積み上がっていくことで、次第に、大悟がいる世界が大分異様なものに思えてくる。勉強を教えている小春の妹に対する態度や、学校に行った時の振る舞いなどが印象的だった。

そして、そんな親に育てられたことも一因なのだと思うのだけど、ヒカリはもっとやばい。ヒカリは、「正しい」と「間違っていない」の境界どころか、「正しい」と「間違っている」の境界も曖昧だ。

そして、この点が、この物語を非常に複雑にする。

小春は「間違っていない」を積極的に回避しようとする。大悟は「間違っていない」を「正しい」と同一視している。そしてヒカリは「正しい」と「間違っている」の区別が曖昧。この三人が家族になろうとしているのだから、歪むのは当然である。

そして残念ながら、小春の立場がどうしても弱いが故に、大悟とヒカリの作る世界に飲み込まれていってしまう。

大悟の母親が、「母親になることと母親であることは違う」と言っていた。映画を観ると分かるが、これは自戒を込めてのことのようだ。小春は、母親に棄てられた経験、そして児童相談所の職員として最低な母親を見てきた経験から、「ちゃんとした母親になる」という意識が強い。そんな小春に対して、父親が掛けた言葉が印象的だった。もっとヒカリのことを知らなきゃ、と悩む小春に、こう答える。

【俺だって、お前のことはよく知らん。でも、俺はお前の父親だ】

僕には子供はいないけど、親になるって大変だなぁ、と改めて感じさせられた。子育てしてる人は、みんな凄いなと思う。
ナガエ

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