ニューランド

ラヴ・アフェアズのニューランドのレビュー・感想・評価

ラヴ・アフェアズ(2020年製作の映画)
3.5
「恋愛に関して、男は(いつまでも)アマチュアなのに対し、女は(生まれながらに)プロフェッショナルだ」とか、云ってたのはトリュフォの映画だったか。そんな事を再認識させる女優(たち)の表情の懐ろに惹かれ魅せられ、括られた作だった。恋愛の感情を題材にした小説家を志望してる若い男と周辺の者たちの、幾重もの絡み·微かな影響の在り方を、各人の語り·告白·回想·現実の出逢い(再会)で描いたものだが、それぞれが、お喋り哲学好きフランス人というより、半ば明治時代の漱石の小説みたいに大時代的に深刻に持論を語り実行し、滑らかな流れ·オシャレ感は欠き、どうにも浅くなったり留まったりでギクシャクしたタッチ。軽いのは軽く見易くもうまくはない。人の出入りやパン·横ズレ対応、ピアノの奏でるクラシックが常に、とスタイルも冴えてないなぁ、どうにも不格好で停滞感の強いフランス映画と観ていかざるを得ない。人物たちが部分溶け合いすれ違い流されてく技·ナチュラルさがない。しかし、これを個人ごとに区切ったままで進み続ける、要領悪くもうちに対し力のこもったのを秘めた作品と視点を変えてもいけるようになる。シーン中いちいち人物に寄っていく移動、一体的というより人と人の位置を絶ち切り·分断するかのような·同時に柔らかく優しさも併せ持つ終盤のリバース、それがスタイルとしての現れで感じられくる。独自の個性に充ちた女たちの中、唯一妊娠にも恵まれず、他者の幸せの犠牲になることを選ぶ女が、存在·髪の在り方、など『めまい』のキム·ノヴァクに似せた外観なのが、ベースともなってる(夫の恋を、罪を抱かせずに成就させてやるために、先に自分が他者に恋したと信じさせる演技は、マデリン=ジュディの自己の捨てかた·活かしかたに通ず)。
恋愛の持つ深い感情·理解、が事態を見極め方向を探り積み上げる計算高さの並存。欲望の持つ快楽に浸る刹那·暴力性と、計算高い感情を削いだ純粋な希求の面。両側に立って色々意見を交わしているが、実際は失恋後等、心の隙間の慰めや楽しみに、一時的に傾いたのがウエイトを増してきて、流れに任せてる状態。そんな持論と離れた実体なので、日常の流れの中で諍い生まれたり、広言するのと違い陰でこそこそのウキウキでよりが戻ったりする。それらは更に出逢い·成り行きで危機の縺れがスルリと解かれ抜けてく妙に見えて、より深い意志とそれへの同じように広い理解·活かしが支え持つに気づき·従い、それに沿ってく一堂という形へ深化してく。罪の意識に振り回されてゆく流れから皆を放ち、「じっと私の真の愛情に気づかせるまで待つ事よりも、(まるごと)赦すこと。求めず与え奢らず、他人の幸福の為の犠牲を引き受く事」のパウロ的劇中映画内語りが、まんま活かされる事も含め、能動性を欠く何か古めかしいドラマだが、各人の見解·信条を越えてそこへ行き着くのに、不快よりも安心をおぼえるのは、先に述べたヒッチコックのイメージの埋め込みと、終盤を締める本当に愛する男との、自分のパートナー·その妻の意図·そして彼自身の今の幸福を立てる、彼とある種孤立させられ合ってる切返しの表現の持つ力に違いない。
確かに聞いた事はあるが、話題になってる場には遭遇した事のない作家は、如何なるものかとイージーにチョイスしたが、傑作にはなり得なくても何となく映画の世界を支えてる、作·作家もあると思う。本当は、観れるのは端から今日の一回だけの、頑固スタイルを実践したという『荒れ地』を観たかったが、朝10時からだと、睡眠が1時間も取れずに観る事になるので最初にオミットした。
【2022−5/28再見時感想は、『恋人はアンバー』欄で】
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