きういさん

もう終わりにしよう。のきういさんのネタバレレビュー・内容・結末

もう終わりにしよう。(2020年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

序盤、車内から場面がずーーっと変わらず、ひたすら繰り広げられる会話劇が結構しんどくも小さな違和感に何だか気になってしまう。

途中から話半分で、妻と間違い探しゲームとして楽しんでいたけど、そのおかげか随所にある違和感が少しずつ清掃員にリンクしていることに気づき、最後の超展開にもなんとかついていけた汗

清掃員が現実で、ルーシーの世界は清掃員の妄想の世界。
それがわかったうえで見終わった後に見返すと、様々な発見があって、意外と面白い。

考察記事を読んでも、少し捉え方が違くてこれまた面白い。

1回目は2.5かなと思ったが、見返して3.2、考察したら面白くて3.6に引き上げ笑

以下、自分なりの考察。

朝の歯磨きの磨き残しが車のジェイクに現れたり、ブランコが妄想の意図しないタイミングで出現したり、直前の行動による影響(例えば電話に表情される名前など)が違和感に直結する。

それらは妄想に介入し、現実を見ろとばかりに侵食してくるが、必ず都合が悪くなるとジェイクが取り繕ったり、無理矢理次の場面に繋いでくるところから、いかにジェイク自身がこの妄想そのものに取り憑かれているかがよくわかる。

もう終わりにしよう。

これは、この虚しい妄想を終わらせようということであり、その気持ちが妄想に現実を連れてくる。
しかし、そう思いつつもまだこの妄想に浸りたい、その葛藤として捉えると、ジェイクの狼狽や取り繕い方が、実に上手いなと思う。

つまり、ルーシーは現実を見ようという決意を抱えた清掃員の内面が投影されており、ジェイクはまだ妄想に浸っていたい清掃員が投影されているのだろう。

だからこそ、現実を見つめる清掃員が、妄想との決別を図る葛藤が、別れを決意したルーシーとジェイクとの会話劇として繰り広げられていく。

これが原題の I'm thinking of ending thingsということなのだろう。終わりについて考えている。る。何度も何度も繰り返してきた、恋人との会話劇という妄想を通して。

これはルーシーの態度による違和感にもつながる。現実につながる行動(もう帰ろうと言ったり、何かおかしいという表情、自分の詩が書いた本を見つけたり、犬の骨壷を見つけたり)は彼女がまぎれもなく、清掃員が現実を見るためのキーパーソンであることを示し、逆にルーシーの行動に違和感(やたら電話に出ない、両親の年齢変化につっこまない)を感じるのは妄想ゆえに清掃員自身にとって都合の良い存在だから。
理にかなった行動をしたり、おかしくない?って行動をするのは、心の揺らぎではなかろうか。

それでもルーシーの別れる、帰るという決意は固い。その決意の固さはすなわち、清掃員が妄想をやめて現実を見ようとする決意の固さであり、それは最後の演説へつながってゆく。

妄想に生きたジェイクという存在が、妄想から解放される瞬間であり、それを称賛するのがルーシーなのだから、よほどこの妄想そのものが、清掃員自身を苦しめていたのだろう。

車の中で服を脱ぐのは、恐らく低体温症による矛盾脱衣で、彼は妄想をやめ、エンジンをかけずにキーを置いたときに、死という選択肢をもって現実からも、妄想からも解放されることを選んだ。

フラッシュバックで道を走るシーンがある。思うにここが映画冒頭の妄想の入り口につながり、清掃員がthinkingしているending thingsは、日本語で言うなら最期の妄想なわけだ。

そこで妄想と決別できた彼は、青空へと消えていく。死が前向きで、美しく描かれているのがある意味グッドエンディングである。

彼は自信家で、きっと思い描いた自らの素晴らしい人生と現実のギャップに耐えられず、妄想を生み出したのかもしれない。

死の直前、フラッシュバックに映る両親から思うに、頭脳も写真も絵も、両親に認められなかったのだろう。
相当に頭の良かったであろう若かりし頃の清掃員は、認められない哀しさと、才能ある自分自身が描くはずだった理想と現実の亀裂、そこにぽっかりと空いた穴に妄想の世界を自然と作り出した。
セリフからも彼が自信家であることは推察できる。

ゴミ箱にあった大量のカップから、この妄想を彼が人生に渡って何度も何度も何度も繰り返してきていたことがわかる。

だから、最後のダンスは彼の本来、こうなるはずだった人生の顛末であり、それゆえにルーシーもジェイクも、絵に描いたような美男美女に交代するのである。最期の妄想ゆえの華々しいエンディングと最大の理想が反映される。しかし、それは現実の介入により事切れてしまう。理想が終わった瞬間かなと解釈している。

そして最後に、最も考察しがいがありそうで、かつ意見が分かれそうなところが、ルーシーという存在である。

妄想世界の人物は全て、清掃員が現実で目にしたものしか反映されていない。
お店の定員はクスクス笑っていた学生と、地味そうな学生の子は学内で見かけた学生。

地味そうな子がお店で優しいのは、彼がイケイケ男子じゃなかったからこそのシンパシーを感じたからかな。勝手に味方にしているわけである。

犬はもちろん、家にいたから出てくるが、幼少期に飼っていたのだと思う。だから、記憶が曖昧で行動がおかしい。断片的に残ったわずかな記憶を、壊れたテープみたいに再生する。

ルーシーはどうか?
ルーシーだけ唯一、現実に出てこない。
ではルーシーは清掃員が生み出した妄想なのか?

しかしそうすると、これまで徹底されてきた現実で見たものという妄想ルールに矛盾が生じる。

ルーシーが実在した可能性を示唆するとすれば、冒頭のルーシーが車に乗り込むシーン。

ここだけコントラストも明度も明るく、ジェイクも冬が来たぞ!!とこの後の態度からは概ね想像がつかないはしゃぎようである。
見返すとここだけハッピーなのだ。

その後は一気に明度も暗く、薄暗いトーンになるのはここからが妄想だから。
以後は鬱々としてアンハッピーである。

車中のフラッシュバックで道路を駆け抜けるシーンがあるのは、いつもここから妄想がスタートするから。つまり、妄想の引き金。

ルーシーという存在は、彼が人生で唯一、恋仲になった実在の人物なのではないだろうか。

あの時、本当に車に乗って自宅に招いたのだろう。しかし、その道中、車内での会話がうまくいかなかったのは、ジーニアスとジーナスの違いを指摘し続ける融通の聞かない真面目すぎる性格からも想像は容易い。

車の中という閉鎖的環境は、会話がどうやっても生まれる。彼はここで、ルーシーを失ったのだろう。

しかし、ルーシーとの破局はジェイクが両親に責任転嫁している。だから、妄想の中の若い頃の母はジェイクに負い目を感じている。妄想なので、都合が良いのだ。

唯一の理解者になったかもしれない、理想な人生を送る伴侶になったかもしれない、そんな存在のルーシーを失った喪質感は妄想を生み出すには十分すぎるほどのショックを与えたに違いない。

その後は、何度も何度も彼女を自宅に招く妄想をし、老ぼれになるまで途方もない時間を費やし、彼女との幸せな未来を妄想だけででも描きたかったのだが、ついぞ叶わなかったのだろう。

ひと時の思い出に囚われ、ルーシーという存在、そして過去に縛られ続けた自分自身によって、気づけばもうどうにもならない段階になってしまった。

もう潮時じゃないか。もう現実を見よう。

もう終わりにしよう。

その葛藤の末に全てを受け入れた彼が、安らかに眠ることができたのは、彼が自分に与えた頑張ったで賞なのかもしれない。
きういさん

きういさん