Foufou

女は女であるのFoufouのレビュー・感想・評価

女は女である(1961年製作の映画)
2.5
『シェルブールの雨傘』など、のちのドゥミ作品を手掛けることになるミシェル・ルグランの音楽が冒頭から寸断されますからね。「音楽がいかに映像を虚構化する力があるか、これでわかりますよね」とでも言いたげな。それとも人物の「気分」は、「思考」によってこのように中断されるもの、とでも言いたいのだろうか。あるいは、ミュージカルと銘打った本作が、歌い出し踊り出す瞬間をめぐる映画であり、その瞬間において敢えて寸止めするということなのか。あるいはゴダール的感性における、単なるノリ?

いずれにしても観る側は多少なりとも戸惑い、苛立つのではないか。「いや、まぁ、なにも考えずに楽しめばいいんじゃん。アンナ・カリーナ、可愛いし」とわかった人なら言うんでしょうか。「あの場面はフレッド・アステアのパロディだよね」「『雨に唄えば』にあんなシーン、なかったかしら」「あのパノラマ撮影は画期的だよね」「自作や当時の盟友トリュフォーの作品に言及するところとかオシャレだし、『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローがカメオ出演してるの、気がついた?」とか、そんな会話こそ、godardien / godardienne にふさわしいのだろうか。

いっとき日本でもカラーストッキング流行りましたけど。どうにも「湾曲した」「短い」「太い」脚には、ね。誰もがアンナ・カリーナになれるわけではないという現実。差し色コーデはそれでもまだまだ参考になるんじゃないかしら。

その点、男は安心してフランス映画を観られますね。アラン・ドロンは別格として、ブラピやティモシー・シャラメ級はまず出てこない(笑)。

子どもが欲しいと言われて焦る男の心理、これはまぁ、私個人としては、独身の頃に戻らないともはやリアルに想像できないですね。子どもが複数いる今となっては、子どもは何人いてもかまわないと思ってるし、なんなら腹違いの子が世界中に散らばってるなんて夢想をしないでもないですからね。非道いと人は言うかもしれないが、終活として世界中の子どもたちを訪ねて回るなんてのもオツじゃございませんか。途中で客死しそうですが。それもまた人生。退屈な日々に、人生の刻印は似合わない。

しかしちょっとアンナ・カリーナの化粧が濃すぎやしないかしら。ストリッパーだから? かえって年増に見えてしまって、3年後に撮られる『はなればなれに』のモノクロの彼女のほうが若くみえるし、よっぽど魅力的。モノクロが七難隠したのかしら。ちなみに『はなればなれに』はゴダールと設立した制作会社で撮影、その翌年にはゴダールと離婚している。蝋燭は、消える直前にもっとも大きくほむらが上がると云うね。

まぁ、なんにせよ、劇中の皆様、楽しそうです。溌剌としている。なにか新しいことをやってます、という気概が今観てもひしひしと感じられます。それを目を細めて見るか、鼻白むか。かくいう私は、途中何度か寝そうになりました。

《Je ne suis pas infâme. Je suis une femme.》と最後の最後にカメラ目線のアンナ・カリーナが言う瞬間、あ、これ、オレ観たことあるじゃん! となりました。。
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