猫と暮らし始めてから、動物のいのちについて考えることがずっと増えた。引っ越しを何度か繰り返してから、家にもたましいが宿っていると信じるようになった。ひと以外の何かを、まるでひとのようだ、と感じることがあるけれど、本当はひとこそがそれを真似ている、というのが正解なんだと思う。猫のねむるすがたは他の何のどんな瞬間よりも正しいいきものの在り方だということ、家はまるで季節のように死んでは生まれ変わること。わたしの中にある、自己愛のほとんどが、それらをすくいとって生まれているのだと思う。今日は朝から部屋中をひっくり返して掃除をした。いつか買ったものを捨て、いつか貰ったものを捨てた。もう置く場所がなくて映画の代わりに本を捨て、本の上に本を重ねつづけてきた。死ぬまで忘れないと思っている幾つかの時間たちから、わたしの存在はどんどん遠ざかり、部屋も時代も季節も変わりつづけ、ただこの肉体と、記憶と、その記録だけが、ふるびていく。ねこに、給水機を買ってみると、いきものにそうするみたいに話しかけている。まだ前の器からしか水を飲まない。この子はわたしよりずっとやさしくて賢いすばらしいいきものだと何度も思ってきた。その目の奥の、頭の中には、科学者も哲学者も詩人も神さまも宿っているはずだ。家は、ある特定の条件下で、あたえられたすべての機関を停滞させ、なかに風すらとおそうとせず、光を必要とせず、灯りを不要のものとし、外側で流れている時間を、人間とともに追い出す。いま、わたしは、そのかたちにはまっているのかもしれないと思う。いのちがある、わたしたちのまなざしの中には。それは身勝手な簡単に生きも死にもするいのちだ。たぶんそれが、ひとに詩を書かせ、ひとに美を解らせる。わたしのなかにあるすべてのわたしはひとしれずふるびていく。わたしの人生は、自分で大切に抱くよりもはるかにくだらないものなんだ、わたしが死ねば、わたしの愛もそっと死ぬ。それならばいくらでもあなたのために汚辱にまみれようと思う。愛に関する、正しい記録のために、わたしはいま曲解も牽制も、きっと怖がるべきではない