映画の撮影は少なからずドキュメント的な側面があるものだけど、本作の劇中劇も含め全体が感覚的に進行していくものも少ない。
確かにドキュメンタリーではあるけどアーカイブ映像もインタビューもフレームの中では虚構であり、更にはその中で演じられる演目もフリではある。
演じることとアクションの多様にグラデーション化した構造を通り抜けて映画は終わる。
坂東玉三郎が演じる女形が現実に女性でないことによる絶対的な客観性によって生まれることは、ダニエル・シュミットやレナート・ベルタが日本人でないながらもこの映画を撮る事と似ている(助監督に青山真治の名前がある)。
シュミットの作品はその構造と耽美さによって最終的に高密度の空虚さを感じるが、突き詰めれば映画が持つ虚構と、そうあればこその演出による神秘性を感じさせる。