ルサチマ

ドライブ・マイ・カーのルサチマのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.0
西島秀俊と三浦透子が原爆ドームと平和公園の話をする吹き抜けの通路を経て、俯瞰ショットが捉える海辺で、西島から投げられたライターを片手で受け取る瞬間、三浦のバストショットに転じるカットの切り替わりの呼吸には息を呑んだ。その直後に再び俯瞰のカメラを挟んで、西島とのバストショットの切り返し、横位置→縦位置で2人を収めたショットと、的確なカメラポジションで2人の距離感を認識させる。フレーム外からの音でフリスビーが三浦の近くに落ちたことを提示すると、すかさず三浦が放物線を描いてフレームの奥の子供へフリスビー受け渡す。このシーンは今作のベストシーンであるとともに、人々は目の前の相手に何を差し出すのかという今作の主題が示されている。

西島は三浦にタバコとライターを差し出す代わりに三浦は西島を北海道へと導く。
演劇祭のディレクターは西島を家に誘い、妻の手料理を振る舞うし、亡くなった西島の妻である霧島れいかは肉体を差し出す。公園での芝居で、一人の韓国人女優は落ち葉を相手の韓国人女優へと差し出してピアノを弾くことへと導く。

それぞれが他人に対して何かを差し出す時、それぞれの秘めた思いは明かされていくのだが、この映画では同時に差し出しそびれる(差し出したものが相手に受け入れられない)ことの重大さも描かれる。

それは例えば『ゴドーを待ちながら』の上演を終えた西島秀俊が衣装を脱いで空席に放り投げたジャケットでもあるし、この映画のクライマックスで三浦透子が放り投げる花でもある(この花を崩壊した家へ向けて放り投げる場面で、あれほど顔にこだわる濱口が三浦透子と西島の背に回った俯瞰で提示したことは非常に興味深いが、それについてはここでは書かずにおく)。
それらは放り投げるべき特定の対象相手は最早存在しないながらも、脱ぎ捨てたジャケットを放り投げる身振りが妻の霧島との会話の断絶を予告するものでもありながら、後者の崩壊した家に向かって投げられる花はかつて差し出すことのできなかった優しさのような身振りとして描かれる。
これは『寝ても覚めても』で一度離れ離れになった唐田えりかに対してタオルを放り投げる東出の身振りを彷彿とさせながらも、今作では放り投げる対象が最早存在してないことにおいて、濱口が投げることの身振りの変容を示していることに意識的であることは疑いようがない。

差し出す対象が存在しないとしても、かつて差し出されるべきであった何かを、時間を経て相手に差し出すことが贖罪に必要な行為であるかのようだ。

三浦透子が花を差し出すことで過去の時間と決定的に向き合うのだとしたら、西島秀俊は亡き霧島れいかや亡き娘に対して何を差し出す決意をするのか。

それは言うまでもなく、あの空席に放り投げられたジャケットを羽織り、舞台に出ることだろう。

では果たして岡田将生が西島秀俊に差し出すものとはなんなのか。

彼が差し出すものは決して、相手の心に安らぎを与えるものではない。ひとつは霧島れいかや同じ劇団員に対する肉体であることは明らかであるし、さらには無断で写真を撮る盗撮魔に対する拳でもある。

彼が差し出すものはある人を思っての身振りであるかもしれないが、それらは必然的に負の出来事を引き起こす要因にもなりえることを批判的な眼差しで捉える姿勢は正しい。

しかし濱口が描き切れてない細部があるとすれば、そんな岡田将生が取る行動があまりに記号的に、且つ映画的都合で処理されていることだ。

決定的なバーを出た後のシーンで画面手前に三浦透子がフレームアウトし、岡田が盗撮魔を追ってフレーム下手奥へフレームアウト、誰もいないフレームの中に遅れて西島が入ってくるというすれ違いを意図した段取りであることは理解できるが、そこでの岡田の行動を単なる段取りで描くだけで果たしてよかったのか。

また、濱口映画を処女作から少なからず見ている以上、彼が俳優のリアクションを事細かに描きこむ作家であることはわかるが、物語の中であまりに俳優を優先し表情を捉えすぎていることがこの映画の長すぎる上映時間に繋がってるだろう。俳優を捉えるあまりにカメラポジションが無駄に切り替わることに対しても違和感を覚える。
例えば霧島れいかとのセックスシーンにおいて、俳優を考慮したカメラアングルにしていることまではわからなくもないが、互いを抱き合いながら違う方向を向いている霧島れいかと西島秀俊のリアクションの違いを示す切り返しにはあざとい露骨さ以外のものを感じない。

そうした余計なカメラポジションと段取りが、物語のナラティブを三浦透子へと移すことへ遅れを取り続けているし、映画を比べるべきではないが青山真治『EUREKA』が描いた再生への時間のかけ方、さらにはその再生までにかかるまでの時間と空間を批判する斉藤陽一郎とラジオの存在を目の当たりにしていると、どうしても今作の濱口の再生へ向かうまでの過程には疑問を抱かなくもない。
西島に対する批判の眼差しを「なんでワーニャを演じないんですか?」という岡田将生の呼びかけに見てとることも出来るかもしれないが、西島が舞台に立つ決定的な出来事となった事件を知った西島は岡田の演じる予定であったワーニャ役を交代したとき、いなくなった岡田将生に対しての眼差しは描かれてない。

彼が出演を決めるに至った理由が、亡き妻と娘のためであることは判るが、西島が岡田に対して差し出しそびれたなにかを上演中に与えることはできたのだろうか。

その細部を描きこむ眼差しを持つことが、冒頭に記述した放物線を描いて、見知らぬ他者に何かを差し出すことの可能性を揺るぎないものにするためには必要であったのではないか。次なる濱口作品がその細部に踏み込むことを覚悟するものであって欲しいと願ってしまう。
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