奪うことでしか浮き上がれないと信じた男たち。
息子は俺を愛してた。
寒い夜にはあいつを抱きしめて寝た。
あいつは小さな腕でぎゅうっと抱きしめ返した。
そうさ、ぎゅうっと。
いつも冒険の話をしてやったよ。
二人で出かける大冒険、
どこかに埋もれた財宝の話…。
ずっと夢を見てたんだ。
雨が続けば必ず晴れ間は来る、
それが人生だろ?
なら、俺にも晴れ間は来るはずだ。
ずぶ濡れのままの運命なんてないだろ?
もしそうなら、なんで俺は産まれてきたんだ?
大丈夫、運は味方する。神様は見てる。
いつか一山当てて、一発逆転するんだ。
因果は巡る。
浮かび上がる瀬は無く、
足も手も、ひたすらに空を切る。
四人の何の罪もない人達が死んだ。
何故こんなことになったか?
何を言っても無駄だ。
言ったとして、それはなんの意味もない、
ただの戯言だ。
カンザス州ホルカムで起こった一家惨殺事件。
実際に起きた殺人事件を題材に書き上げた、トルーマン・カポーティの手による史上初めての「ノンフィクション・ノベル」を原作としている。
複雑な構造だ。
現実の事件の表層、カポーティの見た事件の裏側、そしてそれらを映画的に構成した本作。
現場では一連のことが、「起こった」。
その理由や、そこで行われた細々とした事は、表層を貫き、内面に入り込む。しかし、これ以上の事は、法廷で裁かれた事象と、カポーティが実際に見て、聞いた、彼ら犯罪者からの言葉だ。それをまた、映画として作り込むことで、更に作り手がもたらそうと意図するものは何なのか。
死刑制度の是非についてである。
冤罪を背負わされた訳でもない、「まごう事なき犯罪者」に対し実際に執行された死刑について、過剰な演出により、命で命を贖うことについての無意味さを、殊更に訴えかけている。
死刑制度について、存廃双方の見地は確かに見られる。しかし、存置側と見られる描写はごく僅かで、それも犯人側によって乱暴に吐き棄てられる言葉においてのみと映る。
翻って、本作全体のトーンとして、犯罪者の不幸な境遇に寄り添い、その生い立ちの不幸から、証明不可能な殺意、殺害の動機付けまで丁寧に、時間を掛けてドラマティックに描いている。
補足すれば、被害者に関する描写は、これは良し悪しではあるが、感情を差し挟む余地が無いほどに、非常にドライである。
こうした一方的な描写の連続は、事実として起こった事象に対する客観性と一般的倫理的公平性を著しく欠くように見え、これに私は、死刑制度の是非についての個人的な思想は置いても、私自身の根本が感じる違和感をどうしても拭うことができない。
人にはそれぞれに背負った背景がある。
無論、被害者にしてもそうだ。
そんなことは先刻承知、織り込み済みの上で、我々は日々現実に起きる悲惨な事件や非道な犯罪を出来うる限り客観的に見つめている。
本件に関する客観と主観の揺らぎは、実際の事件と犯人に真正面から向き合ったカポーティにのみ許されることであり、そこにこそ深長な「意味」が込められるのだ。
本作には、詩的にして美しいシーンも幾つかあり、クインシー・ジョーンズによる緊張感溢れるスコアも素晴らしい。物語としての構成も良く出来ており、明らかに商品として作られた作品である。
しかし、木戸銭をふんだくられた上に示される主旨が偏った思想誘導だとすれば、それは我々観客にとって相当な罪づくりであり、許されぬ裏切りである。
死刑の是非を問うこと即ち悪と言うつもりは全く無い。
しかし、それはフィクションの中で堂々とやれば良い。
原作の知名度、センセーションを映画を売るために利用しながら、更にはその中で現実に具体の被害者がある事件を取り上げて、特定の思想の刷り込みを為すことがアンフェアだということだ。
何よりも私の目には、カポーティが己の血を凍らせてまで書き上げた作品がもたらした「意味」への、大いなる冒涜、改悪であるように映った。