オープニングの映像や両角の部屋、ラストの展開など、至る所に「セブン」のオマージュがあって、影響を受けているんだなと思ったけど、小栗旬が出演していた事も相まって本家「セブン」よりも「ミュージアム」の方を強く思い出した。
正直、腑に落ちない部分やツッコミどころもあったり、先の展開も予想出来てしまった。
でも小栗旬の途中退場には驚いたし、殺人描写は最低限にしつつ横たわる4人家族の死体は程よいグロさで良かった。
存在自体が空っぽな両角とクリエイティビティが空っぽな山城の関係は共鳴や共依存にも繋がる危険性も考えられたし、両角はサイコパスな快楽殺人鬼ではなく、自分の存在を確立させる為に「34」の殺人鬼ダガーを取り込む事で存在の安定を保っていたように思える。
一体自分は何者なのだと自問自答する度に自分の存在の異様さや存在の不確定さが強まってしまい、似ている殺人鬼ダガーを心の拠り所にしていたんじゃないかな。
ラストでは「34」の内容と山城と両角の上下が入れ替わっていた所や、山城が両角を殺そうとした際のニヤリと笑う表情から空っぽだった二人が出会う事で狂気性や殺人快楽でその空白を埋めてしまったんじゃないかとも考えられる。
ポスターにあった「描いてはいけない主人公だった」と言う文言に少しだけ違和感があったけど、第1の家族殺害事件を山城が両角に似せて書いていなければ両角にとっての拠り所は存在せず、模倣犯としては罪を犯していなかったかもしれないし、そうすれば山城がそれに共鳴するように内なる狂気性を見つける事もなかったと考えたらこの文言に納得できた。
最初は両角と山城が同一人物だったオチも考えたけれど、両角の存在が現実であること、夏美の妊娠がわかったところで「セブン」オマージュならお腹の子は双子で4人家族となる山城家族が最後は標的になるだろうと何となく読めた。
結局、辺見から始まり両角、山城と殺人鬼としての“キャラクター”が伝播、模倣されていったのかな?
エンドロール後の刃物をこすり合わせる様な音は、山城家族のその後をあれこれ想像させられる終わり方だったけれど夏美と双子は無事であってほしい…
Fukaseの演技を絶賛する声も多いけれど、演じていたキャラクターがトリッキーな役どころだったのも功を奏していたように思う。後に「はたらく細胞」で演じる役も同じ様なキャラだったし、ある種わかりやすいテンプレ通りなサイコなキャラクターがFukaseにはハマり役だったんだろう。不気味な幼稚さを感じさせる両角の話し方が発声の一音目から表現されていて特に「僕」と言う時の「ぼ」の破裂音の様な発声が印象的だった。
劇中に登場する山城の作品「34」は、江野スミが執筆、山城の師匠でオカルト漫画家の本庄勇人の劇中画は、古屋兎丸が担当だが、劇中だけでは勿体無い。その漫画すごい読みたい…
映画版、ノベライズ版、コミカライズ版でそれぞれ異なる展開とエンディングになっているというのも気になる。