幽斎

モーリタニアン 黒塗りの記録の幽斎のレビュー・感想・評価

5.0
2015年全米を震撼させたニュースが飛び込む、それはアメリカ政府の検閲で多くが黒く塗り潰された手記。筆者は悪名高きキューバのグアンタナモ米軍基地に収容された。異例尽くしの本は、瞬く間に大ベストセラーを記録。その後、日本を含む世界20か国で刊行。アップリンク京都で鑑賞。

手記を映画化したいと切望したのが、レビュー済「クーリエ 最高機密の運び屋」と「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」出演したBenedict Cumberbatch。珍しい名前だが15世紀イングランド王リチャード3世の流れを汲む名門出身。オスカーに最も近いと言われる彼が、自ら立ち上げたプロダクションで製作を決めたが、出来上がったスクリプトに感銘を受け、ノーギャラで出演を決めた渾身の傑作。

原作はMohamedou Ould Slahi著「モーリタニアン 黒塗りの記録」河出文庫。1970年モーリタニア生まれ。2000年に米国に身柄を拘束され拘禁、2002年にグアンタナモ収容所へ移送。裁判闘争の末2010年に釈放を命じられるが、実際に釈放されたのは2016年。京都で公開されるまで時間が有るので原作を読んだが、十分に腰を抜かす戦慄の記録だった。

【ネタバレ】実際に起きた事件ですが神経質な方は、自己責任でご覧下さい【閲覧注意!】

河出文庫日本語訳を書かれた、中島由華氏のあとがきから要約。
キューバ南東部に位置するグアンタナモ湾にアメリカの海軍基地が有る。スペインから独立したキューバ政府から、アメリカが租借する事を認められた。ルーズベルト政権時代に条約が締結され、アメリカの放棄が無い限り無期限に租借。キューバ革命後、返還を要求されるが条約を楯に基地を使用し続けた。9.11同時多発テロ後、グアンタナモの収容所に「テロ容疑者」が大量に送られる。テロへの関与が疑われる人々を世界各地で捕らえ、領土外のグアンタナモは、捕虜の人道的待遇を義務づけた国際条約は適用されず、被拘禁者を残酷な方法で尋問。原作が如何に貴重か良く分る。グアンタナモを御存じない方の為に、外務省の公式サイトを紹介したい。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol45/index.html

秀逸なのは単なる告発系ドキュメンタリーの範疇を超える、ミステリー・テイストで描かれた事。拘束されたモハメドゥの母親の依頼を元に、ナンシーとテリーがグアンタナモ収容所で彼と会って暫くは、互いに相手を訝る不穏な空気が漂う。モハメドゥは、拷問体験から人間不信に陥る。ナンシーも本当に冤罪の犠牲者か、アメリカの敵かは、判断出来ない。映画の世界観も、成り行きが見通せない不透明な気持ちを抱かせる。アメリカの正義を象徴するスチュアート中佐の登場。公開された資料は黒塗りだらけ。資料で発見された、モハメドゥの自白。事実を踏まえたテリフィックな伏線も含め、真相に辿り着く姿は、推理小説の趣そのもの。名匠Kevin Macdonald監督はインタビューで「一級の娯楽作品」と言うが大いに頷ける。

モハメドゥ役のフランス人Tahar Rahim、ゴールデン・グローブ男優賞ノミニー。ナンシー役Jodie Foster、ゴールデン・グローブ助演女優賞。スチュアート中佐役でフロント・プロデューサー兼任Benedict Cumberbatch。3人の演技合戦は圧巻の一言。モハメドゥは、思い出すのも辛い拷問の記憶を呼び戻し、精神的にも肉体的にも限界と闘いながら供述書にサインした罪悪感に苛むが、正義の為に手記を書き続けた。ナンシーは嘘の自白書で、パートナーのテリーを失い苦境に陥るが、モハメドゥの手記を読む内に冤罪と確信、周囲の白い目にも負けず果敢に戦い続ける。スチュアート中佐は、9.11で亡くした友人の為に任務を引き受けたが、真相を知るにつれ、何が正しいのか自問自答。最後は、全ての人の尊厳を重んじる教えに従う。賞狙いの大袈裟な演技は無く、葛藤する人間の自然体の姿が、観る者の魂を熱く揺さ振る。

人種の坩堝と言われるアメリカ、COVIDが中国由来で有る事から中国人だけでなく日本人や他のアジア人まで酷い差別が行われ、アメリカ国民もソレを黙認し続けた。それでも9.11以降の中東の人達への迫害に較べれば微々たるモノかもしれない。日本人は日本語を喋る外国人には優しいですよね。同じ様にアメリカ人はキリスト教を信心しない人を差別する。モハメドゥの冤罪は、移民問題でフラストレーションを溜め込んだアメリカ人の捌け口。日本も対岸の火事とも言えない。誰かをボコらないと気が済まない、ネット社会とリンクする。スケープゴートの「闇」は万国共通なのだ。

モハメドゥが14年間も無実の罪で収容された「闇」。根底には同時多発テロ後、連邦議会は上下両院の圧倒的多数で「9.11のテロ攻撃を計画、許可、実行、援助したと大統領が認めた、国家、団体、個人に対し、全ての軍事力を用いる権限」を大統領に与えた。これこそ、違法なグアンタナモ収容所が存在し続けた理由。アメリカの大統領が独断で権限を行使できるのは外交と軍事だけ、今回の様な超法規的措置まで与えられる訳では無い。ブレーキを失った国家ほど恐ろしいモノは無い。

日本も全く他人事では無い。参議院選挙で一部の政党は政府が施行する「緊急事態条項」が危険だと訴えたが国民の関心は低く、テレビや新聞も黙殺に近い。緊急事態条項は政府に裁判所を飛び越えて立法権を認める、極度の権力集中による濫用の危険性が高い。人権保障も停止するので、政府の一存で国民を逮捕する事も出来る。って知ってました?。

これが憲法改正を急ぐ本当の理由。私も自衛隊は軍隊として認めるべきと思うが、緊急事態条項は極めて恣意的な運用が含まれるので全力で反対する。自民党は「憲法改正は安倍さんの悲願だ!」と叫んで煙に巻くつもりだろうが、陰謀論でソレを阻止する為に殺されたとする識者も居る。国民総出で議論すべき問題なのに、憲法改正と言う一言で包んで逃げ切るつもりだ。緊急事態条項はアメリカ政府の意向とも言われるが、私達が出来る事はまだ有る、それが国民投票。是非頭の片隅に留めて置いて欲しい。

本作はアカデミー賞に完全に黙殺された。遊牧民と何方が作品賞に相応しいのか?。是非、貴方のその目で確かめて欲しい。
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