レインウォッチャー

アメリカン・ユートピアのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

アメリカン・ユートピア(2020年製作の映画)
5.0
これをじっと座って観るなんて新手の拷問である。
それほど、まず何を差し置いても演奏が素晴らしすぎる。別にトーキングヘッズやデヴィッドバーン、80sの音楽なんかを知らない人にだって(自分もまったくリアルタイムではない)、奥歯どころかDNAガタガタ揺らしたろか、なパフォーマンスになっていると思う。バーンの曲たちは意外とフォーキーで時に牧歌的ともいえるくらい親しみやすいメロディーを持っていたりする一方で、そこにパーカッションを中心にしたラテンやアフロの要素が足されることで原始的なMATSURI欲が掻き立てられる。そのいいところを最大限発揮するアレンジとバンドの高すぎるミュージシャンシップ、そして何よりステージ全体を包む「オープン」な空気。鑑賞中、何度も立ち上がって拍手しそうになって困った…(リアルにびくってなったりしたので、ごめんね隣のあんちゃん)

始まって間もなく、「ストップ・メイキング・センス(SMS)」とはまたコンセプトが異なる作品だということがわかる。SMSが純粋なライヴの記録だったのに対して、アメリカンユートピア(AU)はより演出されている。バンドも振り付けや照明の同期など、よりシアトリカルに、超ネオ未来型マーチングバンドといった統率感があるものになっている。(繰り返しになるけれど、それでも閉塞感がなくてオープンな雰囲気があるのが怖いくらい素敵なところである)
MCというか、バーンがスタンダップコメディアンよろしく曲間をテーマにそった語りで繋いでいくのもSMSになかったところ。新旧のレパートリーやカバー曲も混じったセットリストだけれど、その語りによって不思議と統一感や曲順の意味が生まれてくる。

逆にSMSとAUに共通しているのは、変な映像編集で邪魔しない、という点か。言わずもがな、それは成功している。でもふとした引きのアングルとかでちゃんとスパイクリー感が出たりするのが面白い。

さて、単に超絶楽しいライヴ映画というだけでも満点だとはいえ、語られるメッセージにもやはり残るものがある。AUの講演が行われたのは2019年だけれど、すでにその頃からいまのコロナ禍の世情を予見していたかのような視線が貫かれている。すなわち「分断」に関する危機意識と「つながり」の再構築というところで、結局コロナは大きな(あまりにも大きな、だけれど)きっかけにはなったものの、そのひび割れはずっと誰しもの目前にあったということなのだろう。
わたしたちは、つながりが当たり前ではなく、実は「努力しないと」生まれないものであることをこの一年半ほどで思い知った。しかし、人間が人間として秀でている原初的な特性の一つとして「連続性に意味を見出す」ことがあるんじゃあないかと思う。ものごとを関連づけて、別の何かを作り出していく力。そしてそれを誰かに伝える力である。歴史や文明はそれをベースに成立してきたといえるし、それこそ音楽もまさにその直接的な産物ではないか。実はただのバラバラとした音が、前後と手をつなぐことによってメロディになり、泣いたり踊ったりできるようになる。人間もまた個々はあまりにもバラバラで不完全だから、つながることで補い合って大きな機能を成す。もちろんそれが苦労や悩みの種になることもあるからこそ今の世の中、ともいえるわけだけれど、つまりはナイフの使い方の話だ。
人間はそんなアイデンティティを持っている生物だからこそ、バーンは決して皮肉ではなくこの時代にユートピアというタイトルを謳ったのじゃないかなと考えていた。人間のもつ「possibility」に賭けたいね。近い日に必ず、この音楽で踊り狂える日を信じて。