雷電五郎

モキシー ~私たちのムーブメント~の雷電五郎のレビュー・感想・評価

4.2
転校生のルーシーが、いわゆるジョックと呼ばれるスクールカースト上位にある男子生徒からセクハラまがいのイジメを受ける様を見て、女子の主張を表明すべく「モキシー」という冊子を作り、フェミニズムに傾倒していく主人公ヴィヴィアンのお話です。

一見して、フェミニズムに重点を置いているようにも見えますが、実際のところ、この作品にはヴィヴィアンの主張に同意を示す男子生徒も、遠巻きにする女子生徒も存在します。
過激な言動でSNSでは忌み嫌われるフェミニストもたくさんいますが、本来この思想は性別によって人間関係を分断するようなものではありません。

性別に関わらず人間には女性的な部分も男性的な部分も存在し、男だから、女だから、という先入観は後天的に生まれるものです。乱暴で威圧的であるのが男らしさではないし、従順でか弱いことが女らしさではないのです。
すべての人間に言えることは、自分以外の他者に対し、誠実に対等に接するというリスペクトであり、それを欠いた人間に男も女もありません。

この映画はフェミニズムに焦点を絞っているのではなく、社会において弱者の立場に陥りやすい女性を通して、人間を縛る「らしさ」のプレッシャーに踏みにじられたまま生きる必要などない、という自由へのエールだと思いました。

作中、最も理想の人間像としてヴィヴィアンの恋人となるセスの存在があります。彼は主人公よりもフラットに女だから、男だからというレッテルに囚われず、ヴィヴィアンの親友クラウディアが主人公の代わりにモキシーを名乗って停学処分になった時、ヴィヴィアンが名乗り出ない卑怯さに失望したと言います。
公平性において、作中セス程平らに学校の出来事を見ている人物は恐らくいなかったのではないでしょうか。一番魅力的な登場人物でしたが、今までの「男らしい」のテンプレートとは程遠い男子であり、しかし、彼の言動の一つ一つは人間としてとてもスマートでクール、そして、他者に対する敬意に満ちています。
魅力的な人物像の基準が大きく変わっていることを最も象徴的に表しているのがセスです。

顔を上げていたい。
それは、自分が生まれもったあらゆる要因によって、簡単に出来ないことが往々にしてある。
男女だけでなく、人種や容姿によっても左右されるものです。
しかし、誰も踏みつけられて傷つかない人間はいない。だからこそ、人を踏みつけることは権利ではなく不当なハラスメントであることを口に出さなければならない。
どんな人間にも他者を踏みにじる権利などないからです。それは歪んだ優越からくる示威行為でしかなく、しかし、自分に優位に働くうちは自覚すらできないもので、知らず知らず己をいびつにしていきます。

この映画は、だからこそ顔を上げて生きることは誰にでも許された平等という権利であると謳っているのです。

青春映画としても非常に素晴らしく、面白い作品でした。
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