花火

映画検閲の花火のネタバレレビュー・内容・結末

映画検閲(2021年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

現実と、暴力映画・行方不明の妹が生きていると信じる「物語」が徐々に均衡を崩していく……という、あまりに自分好みの作品過ぎて前のめりで観てしまった。それだけでなく、キチンと映画の美学としても優れていると言えるのが嬉しい。

冒頭から、映像を送り戻しするため回される編集機のダイヤルつまみ、押収されるVHSパッケージ、報告書を打つタイプライターと、モノを確かな手触りで写し撮る映像に惹かれる。イーニッドが徐々に現実と映画の区別がつかなくなっていく=虚構が現実を侵蝕していくのはもちろん『血濡れた教会』の映写中で、しかもここは途中同じフレーム内に、白から赤に変貌していく映写の光を背に映画を観るイーニッドの顔を正面から写しており、位置関係としてはおかしいはずのその画面がこの上なく的確に思えてくるのが素晴らしい。赤色ではそれより前から、ダグが締めているネクタイとポケットチーフや部屋の使用中を告げるランプのように差し色的に導入されている。とりわけ妹が死亡認定されたことをイーニッドに伝える場面では、テーブル挟んで向かい合う両親とイーニッドを切り返しで撮るに当たり、両親の正面カットでは画面左端に活けられた赤い花、イーニッドを写す斜めのカットではグラスの赤ワインが配置されているのがうまい。ほか、ダグの家で起きる事故は、『恐怖の戦慄』の暴行シーンをちょうど反転させる形で行われており(劇中映画では男が女を押し倒し、この場面ではイーニッドがダグを突き飛ばす)、これも映画と現実の境界が曖昧になっていることの証左だろう。

赤色と共に重要なのが画面サイズで、劇中のビデオはスタンダード、映画内での現実はスコープサイズで撮られているのだが、イーニッドが突き止めた撮影現場はいよいよ混触が極まったかのようにその中間たるビスタになっている。しかも見つけ出した監督から「演出」を受けていると、画面は次第に4:3へと狭まっていく……。巧すぎる、これを前にしたらもうウェス・アンダーソンとか玩具としか思えなくなるのではないか。しかもそうした画面サイズ操作が図式的に見えないのが良いのだ。それは画郭を目まぐるしく変えていく前の場面で自然と導入されているのが効いているのだろう。『血濡れた教会』を見たあとの帰り道、イーニッドが通路を歩いているとどこからともなく人の声のようなものが聞こえてきて彼女は通路の交差点で立ち止まる。このときスコープサイズの画面は彼女の両サイドの壁によってフレーム内フレーム的に空間が区切られることでビデオの画郭に接近しており、均衡が崩れていくことを示唆していて巧み。
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