ヨダセアSeaYoda

真夜中乙女戦争のヨダセアSeaYodaのレビュー・感想・評価

真夜中乙女戦争(2021年製作の映画)
3.7
"壊したいです…何もかも。"

"君は一体何と闘ってるの?"


【感想】

 生きづらさを感じて別世界に目を輝かせる者、生きづらさを感じてなおそこでベストを尽くそうとする者。その全てを死んだ目で嘲笑う者。

 予告通り、内容もあからさまな『ファイトクラブ』オマージュだけど、そこに今作がどう味付けしてるかをしっかり楽しめた。
 そして、エライザ先輩、罪だわぁ。

 今作の評価の分かれ道は何個かあると思うけど、大きいのは "こじらせ感" を個性として楽しめるか引いてしまうか。あと、『ファイトクラブ』が既に完成させたテーマに恋愛要素を無理に捻じ込んだように見える部分がある事に対してどこまで拒絶反応が出るか。その2点は大きい気がする。

 正直、僕は二宮健監督のとてつもない "こじらせ感" を、際立った個性という1つの武器だと思っているし、そこを楽しむために監督作品を観ていると言っても過言ではないので、これでこそ!って感じ。
 原作にこれが忠実なんだとしたら、よくぞ最高にマッチする監督に任せてくれました、という思いで一杯です。

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観た回数:1回
直近の鑑賞:映画館(22.01.24)

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  ここからネタバレ含む
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 今作の恋愛要素については、不要という見方もできるかもしれない。実際、不要という立場で喋る事もできる気がする。
 ただ、よく考えると、今作から'先輩'が絡む恋愛要素を引いたら、大半が"あまり喧嘩しないファイトクラブのパチモン"になってしまう。
 「それなら極論もはや今作を作る意味とは…?」という話にすらなってくるので、そこで'先輩'との絡みが入った意味を考えていくと、確かに今作の先を読みづらくし、面白くしている要素こそ、'先輩'との対比、'先輩'による運命への干渉だったことが見えてくる。

 '私'も'先輩'もこの世界には絶望し、システム化され過ぎて逆に荒廃したディストピアたる社会を生きるスタンスとしてはとても厭世的な傾向にある。
 でもそんな世界への2人のアプローチは真逆で、'私'が世界の破壊を目指したのに対し、'先輩'はシステムを受け入れた上で自分が生きる活路を見出そうとしていた。
 2人は同じであって異なる裏表、まさにベッドで寝そべった2人が模したように見えた陰陽マーク(太陰太極図)のようだった。(あのメタファーらしき表現がとても好き)
 ちょうどそのベッドのシーンで、2人は似た者同士と認め(正直それは声に出さないで欲しかったけど)、しかし2人は互いを必要不可欠とはしないことで、やはり「同じ道を歩まないという同じ道」を歩む関係なのだと示す。
 今作の話の展開を読もうとする観客を一番惑わせた要素が、「'私'は'先輩'との恋によって変わり、破壊ルートでない人間に戻るかも?」という微かな兆し。最終的に'私'が取った行動は非常にハンパ(止める事もせず破壊を大喜びする事もせず)だったわけだけど、'先輩'の存在によって'私'が'黒服'と道を違えたことが、この話の展開を非常に面白くしていた。
 そういう意味でも、終盤に示される通り、'先輩'はただの目の保養や誘惑的存在、恋愛対象としているわけではなく、'私'が選べたかもしれないもう一つの未来としてとても重要なキャラだった。
 '私'がハンパな終わり方をしたのにも意味はあって、'黒服'も'先輩'も、'私'のあり得る未来としての光と闇だったので、'私'は最終的にその間に止まってしまった。だからハンパだったんだと思う。
 ここまで考えて結局、この"下らないほどシステム化された世界"に振り回され、どちらにも振り切れない、最も生きづらい人間の迷いこそが今作の中心にあった、だからその迷いは最後まで迷いのままで、そのモヤモヤこそが今作の核心なんだろうと思える。

 ここまで考えさせてくれる映画が悪い映画なわけがない。やっぱり今作が好きだ!

 最後に。
 池田エライザ様が歌ったジャズナンバー"Misty"の歌詞(簡単な訳)を。
 字幕がついてなかったけど、ここでこの曲を歌ったのも、ただ'妖艶で可愛く歌ってるシーン'じゃないことが分かる。

 "私を見て。子猫のように無力な私を。木の上で、私は雲にぶら下がっているような気分。私は霧に包まれて何も分からない。
 あなたの手を握り、私の道を歩き始める。すると響き渡るのは千のバイオリン、それとも、あなたのHelloかも。
 そんな魔法と、私と。"
ヨダセアSeaYoda

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