分断と対立
残念ながらこれは遠い国の他人の物語ではない。いま私たちの目の前でも起きている問題だ。
そして一度根づいた憎悪はそう簡単には消えない。ヘイトが敬意へ変わったとしても、小さなきっかけでまたすぐに憎悪は顔を出す。
“愛”が救う。“音楽”で救う。
そんな簡単な問題ならばそもそも起きていないのだ。
今作では“境界線”がかなり意識されており、印象的な場面では必ずと言っていいほど境界線が描かれる。
境界線とはつまり、パレスチナとイスラエルの敵対関係を表すものであるが、それはあくまでも一層目に過ぎなく、もっと広い意味での対立や分断として捉えられる。
じゃあこの“境界線”を音楽の力で取り除き、平和を訴えるのが今作なのだろうと思うかもしれないが、そうではない。
今作において“境界線”が取り払われることはない。むしろ映画が進むにつれてより一層濃くなっていく。
“愛”や“音楽”だけでは“平和”は訪れない。
ではどうすればいいのか。
自分自身の意識を変えるしかないのだ。今まで見ていなかったものを自分だけでも見ようとする。
理解しなくてもいい。ただ目の前にいる存在を見るのである。
自分が見ていれば相手も見るのである。
そうして紡いでいった音は次第に大きな音楽へと変わっていく。
音楽を通して“見る”ということを強調し続け、足を進める人間と止める人間が逆になった瞬間が訪れたとき、そこにはこれ以上ない希望が描かれている。
また、楽団にはいなくても問題はなかった存在の二人がいなくてはいけない存在へと転換させ、社会はなにも変わらないが確かに世界は少しだけ変わったと見せる演出は見事。
ただ、一点かなり気になったのが女性の描き方。直情的で主人公たちの邪魔をする馬鹿という描き方はいささか短絡的すぎるのでは。
一方で理解ある大人として描かれたり、更生の機会が与えられるのが男性ばかりなのもどうなのか。
分断と対立というテーマを扱っているのに“見えていない”し、これに関してはさすがに見過ごせない。