JAmmyWAng

呪怨2のJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

呪怨2(2003年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

前作の『呪怨 劇場版』の公開前に、なんと今作の撮影は既にほとんど終わっていたという事らしい。伽椰子の呪いによる時間操作が、遂に作品の製作にまで影響を及ぼした、とでも言うのだろうか。

清水崇は「もう俊雄で怖がらせる気は無い」と言っていて、恐怖の役割は実質伽椰子一人のパフォーマンスに託されたワケであります。
巷には「曲のテープに謎の人の声が入り込んでいる」というような怪談があるけれど、今作を見ていた僕にも、確かに聞こえた気がするのです。"I'm in charge"という伽椰子の声が。

俊雄や異音などの間接的な恐怖演出(最早俊雄でさえ恐怖を導くためのプロセスである)を積み重ねた後、満を持して伽椰子が現れるワケなんだけど、獅子奮迅とは言ったもので、伽椰子はあの手この手で精力的に登場しまくる。終盤にもなると、何気ない場面でも、画面の端にぼんやりと映り込んでいたりするものだから、最早『ウォーリーを探せ』状態になっていて、実際に伽椰子を見つけるとスゲー嬉しい。

そうした伽椰子を出現させるための「あの手この手」の手法について、よくもまあこれだけのバリエーションを実現できるものだなあと、僕はもう素直に感動します。

小中千昭曰わく、「髪の毛の束は、単一ではなく重層的なシニフィアンを示している。単に物質以上の意味を観客は読み取るが、しかしそれがアプリオリに持つ感触というものとも無縁ではないのだ」。今作に登場するカツラや染みも、それ自体として理性的に解体し得ない不気味さを提示しているんだけど、それらの示すシニフィアンの重層性に、伽椰子の存在が滑り込んでいるワケです。

さらに伽椰子は、コピー機から排出される紙にまで出現してしまうのであって、白紙という空間に自らのシニフィアンを複製しているのである。最早霊界におけるアンディ・ウォーホルやないか。

そして最終的には『ローズマリーの赤ちゃん』風に飛び出してくるワケであって、感無量とはまさにこの事じゃないですか。呪いは真の実体を獲得して、「見え過ぎていた」霊が「見えて当たり前」の存在へと移り変わり、この平穏な世界に溶け込んでいく。恐怖の役割を一手に担った伽椰子の努力が報われたようで、正直僕は泣きましたね。

恐怖と笑いは紙一重と言うけれど、たとえどんなに笑われようと、精一杯にアタックを繰り返す伽椰子の魂は、どこまでも泥臭く、どこまでも崇高である。僕はこのような存在を心からリスペクトしますし、願わくば自分自身もこのように生きたい。そのための第一歩として、まずは階段降りから始めていきたいと思う。佐伯家にまします我らの伽椰子よ、どうか私を見守りください。
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