ボルティ

スティルウォーターのボルティのレビュー・感想・評価

スティルウォーター(2021年製作の映画)
4.2
川崎生まれのとあるラッパーが以前、インタビューでこんな発言をしていた。「川崎でもアトランタでも世界のどこでも、“南"はやべぇんだ」

フランスでも"南"はやべぇ。
パリではなく、マルセイユが舞台なのである。
オクラホマ(アメリカの"南"だ)の無職中年白人男性がマルセイユの刑務所に収監されている娘に会いに行く。自分は無実だという娘の主張を信じた父親はマルセイユに留まり、真犯人を見つけ出そうとする…というのが本作の大まかなプロットなのだが、そういったミステリー、事件の真相といったようなものはどうでもよく、この映画が本当に描こうとしているのは"南"の問題なのだと思う。

"南"とはなんだろうか。
ひとつにはそれは、富が集中した裕福な"北"に対して貧しい、空腹の象徴としての"南"というふうに言えるかもしれない。
あらゆる人やモノがグローバルに行き交う現代において世界は、マルセイユの街じゅうの壁に描かれているグラフィティのように文化的なもののみならず、経済的な構造をも共有するようになった。
先進国と呼ばれる国は今やどこも、多かれ少なかれ"南"の問題を抱えている。
フランスにメキシコ人労働者はいないがアラブ人はいる。
「連中はあなた方の生活を奪おうとしている」と煽動するトランプはいないがル・ペンやゼムールはいる。
世界はつながっている。
また、そういった経済的な構造を燃料にして、"南"は人々の心の中にも入り込んでくる。それは人々に無力感と剥奪感を齎し、人々を排他的な行動へと駆り立てるだろう。そしてそういった心のありようは、トランプやル・ペンやゼムールみたいないわば"北"の人間に容易く利用されてしまうのだ。

ラストのシークエンス、父娘の短い対話で父親は少なくとも内面的には"南"の人間ではなくなったことがわかる(一方で娘は依然として"南"に囚われたままである)。

些か長過ぎる映画だが、自分は深く心動かされた。

冒頭のラッパーの発言ともうひとつ、この映画を観て思い出したエピソードがある。
アメリカ南部出身のノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーがかつて来日した際、会見で語ったとされる言葉だ。
「我々(フォークナーと日本人)は理解し合うことができる。なぜなら我々は共に、ヤンキー(北軍)に敗けたからだ」
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