jonajona

ディア・エヴァン・ハンセンのjonajonaのレビュー・感想・評価

1.0
すっっごいだめ!だめだめ!!!
全然許せない。メモも込めて色々言いたい。最近大概何でもありありって思えてたけどこれは無い。端的に言って悪人の物語をみせる覚悟がない。

劇場公開時からある事情で気になってて人にお薦めされたりもしていたんだけど、あらすじとこのポスター見た時から妙に嫌な予感がしてなんとなく見たくなかった。
なんとなく、という部分をうまく言語化出来ず、しかしこれは生理的にいやーーな感じがする…と思ってたのが、高橋ヨシキ氏がyoutubeで大批判してたのを聞いて好奇心に負けて鑑賞。
一から十まで気に入らないとはよく言ったもので本当そんな感想になった。好きな人と映画の意見が合うのは嬉しいが(もし自分は大好きだったらどうしようとか考えてた、恥ずかしい話)こうも嫌悪感が湧いてくるとは意外だった。ほいでこの映画が売れとるんかいっ…

そういや、そもそも『思いやりでついた嘘』てのがウソだよな。だって半分は自分の為じゃん最初から。それを全部思いやりみたいに捉えてる時点で間違ってるよ。

【ポスターについて】
ポスターとCMを見た時の居心地悪さを言語化できるようになったので言いますが、まず酷いようだけどこの主人公の顔が気に入らなかった。全く美男子でもないのはいいのだが、なんとも小憎たらしい顔をしてる。なんか…鼻スジのあたり!
できる役者もいるだろうがこの人は無理だろ。子供の顔には見えない。
それでも彼が起用されたのは歌唱力もあるんだろうが、歌は今時映画ならどうでもカバーできるので『顔』だろうと思う。
彼のこの冴えない顔がこの映画には必要だったのではないか?この小憎たらしい顔が?なんで必要なのかというと『学校で友達もおらず孤立する変人くん』だから?
そういうキャラに彼の人相がぴったりだからだらう。そんな所まで考えて初見時の悪印象に思い至った。僕が気色悪いと感じてたのはぼっち役にさもありなんな姿の彼を起用すればハマるだろうという浅はかな製作陣の思惑それ自体だと。
昔から『かわいそうな目に遭ってる人』を『かわいそう、に見える人』に演じさせるのは、その演じさせようという行為自体が二次的被害を生んでるんではないか?と思ってる。『に見える人』というジャッジを下してる時点でブスだのハゲだの気狂いだの言ってるようなもんで、二重で傷付く。死体蹴りと一緒だ。
24時間テレビのような応援だの一致団結だのにはアレルギーがあるのはそのせいだ。こういう奴らは大概実際はバカにしてる。その事にも気付いてないだけで。作中でもまさに死体蹴りが行われてるのだが、そこに一切の正当な解釈や結末が用意されていない軽薄さと不誠実さが、ポスターに見る主人公の彼の容姿と絶望のストーリーのはずなのに爽やかな話にしか見えないデザインから読み取れる。
そう、この爽やかさ!プロットの指摘は下にするが、本作は構造上爽やかになんて(相当上手くやらないと)ならないんだよっ!そういう事も考え無しな感じがする。
それらが透けて見えて反射的に見たくなくなったんだと思う。


【ストーリーの不満点】
アクション映画で万が一誰も戦わないことがあれば驚く。ラブストーリーと銘打っておいて阿鼻叫喚の大殺戮があっても驚く。
ジャンルにはある程度の型があって、嘘吐きの物語にもジャンルがあり型が存在するものだと思う。
嘘吐きの物語とは大きくジャンル分けするとサスペンスであり『犯罪劇』にあたり、大概『しでかしちまったデッカい何かを何とかする話』である。荒すぎて自分でも引いてる。でもそんな感じ!
何か!を、なんとか!しなくちゃいけないのだが、本作では何か(赤の他人の死を利用して親友を装うことで遺族家族に取り入ったり妹とセックスしたり学校での地位を上げようと企む=死体蹴り)はあるのに『なんとか』が一向に姿を表さず、後半の極まで引っ張ってるだけかと思ったがなんと最後までなにもせず終わるのだ。こんな気色悪いのは珍しい。

正確には、『なんとか』らしきものはある。そのなんとかってのは『バレそうになるのでさらに嘘を重ねてごまかして死人の存在を辱めていく』という事だけなのだ。あまりに非人間的だ。

犯罪劇のルールとして悪事を働いてしまった者は結局は地に落ちるのが妥当だと個人的に思う。そういう意味ではこのクソガキも最後地に落ちてるのだが、そこだけ形式通りでも意味がない。『なんとか』しようと画策する内に仲間を失ったり後悔の念を抱いたり躍起になってるうちに、自分の罪に向き合う時間が来て初めて成立するのだ。主人公個人が向き合えない場合も運命が彼に制裁を加える。そういうものが犯罪劇なのだ。だからギャング映画では金持ちになったっきりハッピーエンドとはいかず裏切りに合い孤独になりオレンジ畑で一人死ぬことになるし、嘘吐きの物語ならばついた嘘が巡り巡って自分自身の大切なものを傷付ける型にならないとおかしい。
そうした他人の失敗をドラマとして目の当たりにして初めて『ああ、自分はこうしないようにしよう』とか考えられるんだよ。栄枯盛衰が肝なの。

この映画見てるとなんか嘘ついても裁かれないし他人を傷つけた代償に見合うほど反省もなけりゃ傷も負わないので、嘘ついてりゃいけるっしょ?って感じの気持ちになるじゃん。

多分製作陣は『バレる』ことそのものが罪に応じた罰だと解釈してるんだと思う。バレて再び主人公が孤独の身になる事が。いやいやいや…!
優しい嘘、ていうけれど彼は終始自分の孤独を救う対象を求めて嘘を付いたようにしか見えない。一時ながら理解者も得て万々歳じゃん。誰に対して優しい嘘なのか?ということなんだわな。死んだ少年の遺族に対しての優しさに一見見えるけど、彼が誤魔化したせいで本当の息子の姿を見失うのは優しくないしょ。苦しい顔してるけど嘘をついて1番得してるのはずっとエヴァンだけ。

嘘吐きにとって1番の罰は嘘を吐き続けることでも、ましてや嘘がバレることでもなくて、嘘の罪を贖う機会を永遠に失うことと、たぶん自分の嘘をも超越した現実に打ちのめされることだよ。結局は乗り越えられないんだ嘘を持ってしても、てのが一番効くんだよ。罪悪感に溺れたふりしたって結局弱くて身勝手なやつで、その自覚があるから嘘で超越しようとしてるんだから。
その辺のことがよくわかってない。
そんで、なによりのお話の欠陥は死んだ少年の事を誰も見ようとしてない事だ。妹ちゃんと辛うじて同級生の意識高い系女子だけがちゃんと彼がどんなヤツだったか考えてて、他は美談ありきの事しか考えてない。ヴォネガット読むような不良だぞ⁉︎なんで誰も相手してあげないの!

(だめだ、むかついてるけどねむてぇ、また追記します)


【ミュージカルとしての違和感】
僕はあまりミュージカルを見ないので、ハマったミュージカルといえばウエストサイドストーリーとレミゼラブル、スウィングキッズ(韓国)とララランドくらいなものなのだが、そんな門外漢の自分でも何となく彼の歌うタイミングは全くのクソだという事は分かる。普通は恋の始まりや、葛藤を抱えて決闘に挑む時などの、エモーションが高まった時に唄うのがしきたりなのだ。
葛藤という要素はとりわけ大きく感じる。狭間で揺れ動いてる時こそ人は歌う。普通の映画だと画面上で俳優が繊細な表情等の機微でそれを表現するのに対して、ミュージカルではコチラに飛び出してくるかのように本来内側にある感情を発散してくる。それが見ていてカタルシスになる。似た葛藤を抱えてる人にとってはある種の代弁者にすらなるから。
だけどこのクソときたら、こいつが歌い出すのは大概言い訳がましく誰かを自分の嘘に取り込もうと説得する時だけで、それ以外は『僕は独り〜♪木から落ちたっ〜誰か見てよ〜♪』だけなんだわもう知るかこいつめ!
だからこいつの歌には葛藤なんて揺らぎはないし、相手に自分の意思をぶつけるためだけの歌なんだよ。真実を言おう言おうと思って言えない、ならその気持ちこそ歌い上げたらいいのに…
もっと変なのは、この映画誰かが歌ってる時に独唱なのだ。つまりテーブル囲んでる時にエヴァンが歌い出すと『あ、こっからミュージカルパートね』と思いきや彼の歌に対して死んだ生徒の家族は普通に会話のテンションで返事をしてる。変だよ、なんなんこれ…
完全にコント。ここは普通に爆笑したのでこの映画の唯一魅力かもしれないが、ミュージカルとしては異様すぎる。
片方『ララ〜♪』みたいになってんのにもう片方が『あーそれってあの果樹園のこと?』とかシラフで会話してさ。ミュージカルは酔っぱらってるようなもんなんだから素面で返しちゃダメ。
てかなんかミュージカルって大勢で踊ったり歌うから楽しいのに、人も少なくないか…?音楽も一曲目以外あんまり入ってこない。
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