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グリンチのLCのレビュー・感想・評価

グリンチ(2000年製作の映画)
3.9
面白かった。

「 Grinch 」という名前の者が出てくるけれど、見ていて不快さが目立つ場面は不思議と少ない。不快さを感じてもおかしくないのに、愛嬌に思えてしまう。そんな不思議な魅力が詰まった物語だった。

この「 grinch 」という言葉、元々は「不快な音」とか「毛深いもの」を表す使い方をされていて、キャラクター名としては、それらに加えて「厳しさ」をも象徴する。
ところが、本作の原作者さん(Dr. Seuss)が、正にこの「クリスマスを盗んだグリンチ」によって、「場の雰囲気を台無しにするが、愛嬌のある者」という意味を付与した言葉。
彼の作品以降、ネガティブだけれど愛らしいキャラクターの名前として人々に認識され始めた、面白い名前。

この「 grinch 」という名前の者、つまり、「毛深くて不快で、しかも嫌な奴」が、作中では「 whoville 」という場所で活躍する。
「 who 」は、「何者か」という疑問を表せるよね。本作では、「グリンチとは何者なのか」というテーマが、結構大きな存在感を持っている。
しかし、「 who 」とは疑問ばかりを担う言葉でもない。それは、「ひとりひとりの誰でもみんな」のことも表す。
作中で、そのものズバリ「 who 」と呼ばれる者たちは、ひとつの共同体を形成しながら、その一員であるひとりひとりに個性を確認することも出来る。
個性を持つ、ひとりひとりが違った存在の whos (who たち)が、ひとつの町の住人として一体感を持って暮らしている。
そういう、大変に一般的で、どこででも見られる生活の様子は、グリンチの異質さ(普通の中に溶け込めない者)を鮮やかに描き出す。
本作は、それでもみんな who なんだよ、そう伝えてくれる、優しい物語。

「奴ぁ頭のネジがゆるんでるのか、それとも靴が窮屈だからなのか、確かなことは、ハートの大きさが人の半分なんよな」という、出だしの説明が面白い。
頭のネジは、手に触れることが出来ないもの。でも、窮屈な靴は手に触れられる物。
そう考えると、では、ハートはどちらのことを指しているのだろう。手に触れられる心臓のこと?それとも、形を目で見ることすら出来ない、気持ちのこと?
本作では、ここまで簡単に見てきたような「ひとつの言葉が持つ多層的な意味」を上手に使って、物語に対する意識をぐいっと深める技が魅力的に使われているように思う。
作中、気持ちの大きさ、小ささを考えながら見ると「グリンチも住人も、小ささが似てるかも」と感じられる景色が広がったり、最後に心臓の大きさの話をしてくれたり、そんな「楽しい仕掛け」がたくさんある。

みんなは楽しめるんでしょうけど、自分、その「楽しい」の中にいないんで。「みんな」の中に、自分、いないんで。けっ。
グリンチはそうやって、クリスマスを嫌うわけだけれど、「あなたが表彰されることになったから、来てね」と言われると、面白い程に迷いに迷う。
みんなの拍手喝采の真ん中に居る自分… いや、浮かれて行ったら、また傷付くに違いない。行かないぞ。寂しくて、悲しくて、何もかもが恨めしい、そういう気持ちのままでいるんだ、そうじゃないと、また傷付く。
もう傷付きたくないけれど、それでも、みんなの輪の中に迎え入れられる魅力って、大きい。
結構切実な姿なのだけれど、見ていて苦しくならないのは、本作のグリンチが悩みまくる姿に、ちゃんと愛嬌があるからだろうかな。
彼は、1人の女の子との交流を通して、物語の最後には感じの良い何者かになる、というわけではない。最後まで嫌な奴なんだけれど、それでいいんだ、とニコニコできる。
嫌な奴だけれど、憎めない。良い子の気持ちを裏切る際には躊躇うし、好きな人の気持ちを知って素直に喜ぶし、でも、目の前で負かしたライバルの嫌な奴に「笑えよ、クリスマスやで」と冷たい目を向ける。そんな奴。

嫌な奴って、どこにでもいる。
根暗だったり、人が傷付くことを言って笑ったり、捻くれていたり、見栄っ張りだったり、肩書きや地位や勲章を自慢してばかりだったり、良い人アピールが過剰だったり。
でも、孤独の中でひとりぽっち俯く人のいない、素敵な1日があったっていい。年に1度のクリスマスは、誰でもがみんな、幸せを感じられる日であってほしい。
誰でもが、そういう日に出来る力を持っている。
それは、小さな女の子の「みんなで楽しみたかっただけなのにな」という呟きを、悲しい呟きのままにしない力。
毛深くて不快で力持ちの嫌な奴だって持ってる、ハートを大きくする力。
クリスマスってプレゼントのことじゃないんだ… そう考えて、考えて、もう無理ってくらい考えて、考え抜いた、その力。
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