世界各地の深夜と早朝を描いた一人旅風ドキュメンタリー。旅をする「僕」のモノローグで、仕事をする人たちや飲み歩く人たちの姿をつづる。
ドキュメンタリーでありながら、私小説のような一人称での語りがメインで、美しい映像とともに、「僕」がどこで何をして出会った人たちとどんな話をしたみたいな語りが続く。
印象的だったのは、モノローグの中では「僕」の気持ちや旅への想いが雄弁に語られるのに、映像からは「僕」の存在が徹底して排除されているところだ。
「僕」の姿が映らないのはもちろん、出会う人たちに話しかけるシーンも一切なく、なんなら現地の人たちのインタビューらしいインタビューもほとんどない。
ただただ街の風景や彼らの仕事の様子などを映し続けるような観察者に徹する映像で、それが良くも悪くもドキュメンタリーらしい泥臭さを消している。
例えば、台湾の海辺で牡蠣を剥いている女性たちに牡蠣を一つわけてもらって食べたら「地元の人は生では食べないよ」と笑われたというエピソードがある。
今の場面をそのまま撮影して流せば良さそうなものを、実際は牡蠣を剥いている様子の映像ばっかりで、その上にモノローグで上のエピソードを語る。終始そんな具合なのだ。
古風なドキュメンタリーに慣れていると違和感はあるのだが、こういった生々しいやりとりがないおかげか、映っている対象と視聴者との距離が遠く感じられ、それが心地よいといえば心地よいとも言える。
生々しいドキュメンタリーは見る人も疲れさせる。その点、この映画は美しい映像も相まって、視聴者を癒すことに徹しているとも言える。
ただ、そこで切実に暮らす人の表面だけを切り取って「こんな街で暮らすのもいいよね(キラリ)」みたいな態度を取るのは、相手に対して消費的な態度にも映った。(実際はちゃんと取材してるんだろうけど、そういうカットがないので)
また、モノローグでは、この「僕」の「旅っていいよね」みたいな話が多いのだが、「僕」の素性については全く語られないので、「時間も金もあっていい身分ですな」という鼻につく感想が先行してしまう。ひねくれすぎかもしれない。
もちろん、旅を通して世界中にいろんな暮らしがあってそこに思いを馳せるのは旅の醍醐味だ、という意見には共感できるのだが、現地の人との関わり方もなんだか表面的で、金と時間のあるボンボン大学生のnoteみたいな臭みがあった。
特に漁師の早朝の漁を見て「おはよう、マルセイユ、と僕は心の中でつぶやいた」みたいなモノローグには笑ってしまった。臭すぎるだろ。