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ONODA 一万夜を越えてのCHEBUNBUNのネタバレレビュー・内容・結末

ONODA 一万夜を越えて(2021年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

【忠誠という名の信仰】
第74回カンヌ国際映画祭ある視点部門で一本の作品が話題となった。それは『ONODA 一万夜を越えて』だ。ある世代の人はこのタイトルを聞いてピンと来るのだとか。あの小野田寛郎のことかと。自分は不勉強ながら、この映画で初めて彼のことを知ったのだが、彼の半生を映画化するのはあまりに危険だということは明白だった。アジア・太平洋戦争後30年近くフィリピン・ルバング島に潜伏し、終戦したことを信じず多数の現地人を殺害しているのだから。一人の人間の力強い生き様を描いただけでは炎上不可避である。また、監督はフランス出身のアルチュール・アラリである。外国人が日本とフィリピンとの関係、強いては日本軍のある種カルト教団的体制を捉えることができるのだろうか?最近だと『MINAMATA-ミナマタ-』の例があるだけに不安しかなかったのですが、杞憂でした。尚、ネタバレ記事です。

アルチュール・アラリ監督は執拗に顔を撮る。それもじっくり撮る。序盤は、日本のインディーズ映画で見かけるようなイマイチな画だなと思って観ていたのですが、段々と本領を発揮する。

その最初の衝撃は、スパイ学校時代の小野田寛郎と教官の関係を描いた場面にあった。学生たちは歌を歌いながら、歌詞の正しさについて議論している。そこに、教官が現れる。彼が緊迫する空気の中「まあ座れ」と言うが、小野田だけ立ったままだった。彼が思わず冗談を言うと、上官が眼光を鋭く光らせ、「一字一句気にしろ、俺と同じように歌って見ろ」と言う。小野田は教官の歌詞に合わせて歌うが、「そうじゃない。もう一度言う。よく聞け、俺と同じように歌え。」と力強く脅すのだ。正解はメロディーに合わせて、自己流の歌詞で歌うことだった。歌詞が変われども本質的な部分は変わらない。戦況は変わる、裏切りなどもある、故にその時その時で戦術は変わるが、本質的な忠誠は変わらないという思想が小野田に植え付けられる。この場面をじっくり時間かけてアラリ監督は描く。

それにより、小野田が何故、仲間が疑問視したり、沢山気付ける場面があったにもかかわらず終戦していることを信じられなかったかに説得力が帯びでくる。つまり、小野田にとって忠誠は信仰のようなものであり、戦争が神のような存在になってしまったのである。終戦していることを認めてしまうと神を信仰を失ってしまう。だからこそ、垣間見える外側の世界の事実を、陰謀論的に歪めた真実として小野田の中に取り込み独自の世界が築きあがっていくのである。

本作は、信仰の対象、恐れる/恐れられるの巧みな変換によって3時間飽きることない不思議な人間心理を堪能することができる。そこには、フィリピン人の目線もあり、小野田たちが農家を襲撃する場面はホラー的表現で描かれている。また、その恐怖は中盤以降、小野田たちが現地民にモリで急襲されるされる場面で逆転表現として描かれている。そして、忠誠を信仰していた小野田のもとに現れる彼をある種の神のように捉えていた青年が現れ、小豆と酒を囲って長い会話をするシーンでは見事な信仰のベクトルの遷移となっている。青年が、自ら小豆を食べ酒を飲む。全く語らない小野田に対して、彼は酔っ払いながら彼に会えたことを楽しそうに語る。すると、小野田は上官の顔が浮かび、自分の信じていたものは何かを考える。既に30年近く、信じていたものを突然放棄することはできない。その複雑な感情のやり場のなさを模索する中で、彼は酒を受け入れ、そして立ち上がる。何人も殺害してきた男なのに、この場面を観て涙をしました。

本作は決して、小野田の武勇伝を語る映画でも、小野田の罪を暴く映画ではない。これは、長年信仰してきたものを手放すまでの話であり、乱暴に人間から信仰を奪うことはできないと丁寧に丁寧に人間の行動を紡いだ傑作であった。
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