あなぐらむ

悦楽のあなぐらむのレビュー・感想・評価

悦楽(1965年製作の映画)
3.5
創造社で撮られた1965年の作。
山田風太郎原作で、身分差故に実らぬ恋と知り、その女性の為と思って引替えに殺人を犯した青年が、その殺人を目撃した官僚から脅されて横領した金を預かり、待機している死を前に、そのあぶく銭でまだ知らぬ愛の悦楽を得ようともがく姿が描かれる。
金=経済原則と観念的な愛を二項対立させ、貧富と愛の断絶が描かれていく。悪魔の契約をする青年にはまり役の中村賀津雄。

彼が思いを寄せる名家の令嬢に加賀まりこ(可愛い)。最初に金で買われる女に、こちらも美しく逞しいホステスにハマり役の野川由美子。悪魔のような官僚に小沢昭一(毎度のトリックスター!)。
「青春残酷物語」から既に年月を経て尖った部分は無いが、資本主義が愛さえ買う世の中を攻撃している。

松竹ヌーベルバーグは基本貧富の階層構造(というより旧大船組の映画人、戦中派)、資本主義を批判する試みであるのだが、結果的にはインテリである松竹映画陣が貧の側によって立とうにも柱がいかんせん借り物なので、図式的観念的にならざるを得ない。
東映の娯楽映画こそ貧しい人々の側を描き得たのは、観客がその層(労働者)だったからだ。

「悦楽」が批判するものは婚姻にも及ぶ。青年は三人目の女性に結婚を迫られる。彼は契約として二ヶ月だけ結婚する。愛される事無きまま離婚する。金の前に愛は無力だ。最後に彼が辿り着くのは唖で足りない、客を取らされている娘。言わば差別民。そこがインテリの最大の脆さだ。彼らインテリは弱者に「純粋」を見る。青年がそれに気づいた時には、彼はその現実に裏切られる。それは自らが富める側である彼らの錯誤の姿だ。松竹ヌーベルバーグを初めとする戦後文化人の、今につらなる流れ、コミットの失敗がここにある。

本作は大島のフィルモグラフィから見ると丁度中間点辺りの作品で、ヌーヴェルバーグというにはドラマが勝っているし、恐らく「月曜日のユカ」の中平康や「すべてが狂ってる」の鈴木清順に触発されたような部分もあり(加賀まりこのキャラとか)、これはこれで微笑ましくもある。というか、いつだって大島渚は、自分以外の監督の作品に嫉妬し踏襲する、庵野秀明のような存在なのだ。