さかもと

アリスとテレスのまぼろし工場のさかもとのレビュー・感想・評価

3.0
『アリスとテレスのまぼろし工場』は悲しい作品だ。二重の意味で。
本稿ではまず『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と本作を対比させ、次に本作自体が放っている悲しみについて考えたい。そして我々が生きているこの世界について捉え直すことで「二重の悲しみ」を浮かび上がらせてみたい。

以降の文章は『アリスとテレスのまぼろし工場』と『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の内容に触れるためご了承の上お読みください。


目次
◼️はじめに
◼️『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』との対比
◼️灰色の日常をやり過ごす我々
◼️二重の悲しみ
◼️感情をかき乱すという突破方法


◼️はじめに
『アリスとテレスのまぼろし工場』のあらすじはこうだ。
舞台は見伏。冬に起きた製鉄所の爆発事故以降、見伏は時間的にも空間的にも閉じ込められてしまう。
おそらく10年近く同じ毎日を過ごしている住民は「元通りになった際に齟齬が無いようにするため」決まった行動をし、定期的に「自分確認票」で心身が変化していないことを提示し続けなければならない。

見伏に何か変化が生じると空間に緑色のひびが入ってしまう。そのひびを修復するのは製鉄所から噴き出す狼のような煙(神機狼)だ。
恋など感情が大きく変わってしまうことでも緑色のひびが発生してしまい、その都度神機狼は喰らうようにして人ごと消失してしまう。

何も変化がしない町にただ一人成長を続ける少女(通称・五実: 久野美咲)が居てこの少女との出会いにより世界は大きく変化していく。

謎多き作品だが要約すると、緑色のひびの向こうには時間が止まらなかった世界がずっと時を刻んでいて、閉じ込められた見伏の人達はもうこの通常の世界へは戻れないことが示唆される。五実はその世界から見伏に予期せず紛れ込んでしまった少女であり、だから彼女だけが成長を止めずにいられるのだ。
見伏の人たちは灰色の日常を永遠に過ごすか。それとも緑色のひびを広げて灰色の日常を壊しみんなで消滅するか。
鑑賞後我々の人生観や社会観に強く問いかけて来る作品だ。

◼️『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』との対比
鑑賞中「うる星やつらのダーク版みたいだな」と思った。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(以下『ビューティフル・ドリーマー』)は「文化祭前日を永遠に繰り返す」というストーリーで、キャラクターが成長せず日常に戯れる『うる星やつら』という作品世界に対するアンチテーゼとも受け取れる構造になっている。
『ビューティフル・ドリーマー』では毎日のように続く非日常はやがて登場人物達の精神を変調させてしまう。
楽しい非日常が抜け出せない苦しみの日常と化す。
この監獄のような日常から抜け出すために必要なのが「恋する想い」と見れば、『アリスとテレスのまぼろし工場』と対立構造となっていることに気付けるだろう。
『ビューティフル・ドリーマー』では「目覚めたら1番に会いたい人の名前を叫べば現実に戻れる」という展開になる。
『アリスとテレスのまぼろし工場』では「見伏では恋をすることができない」と気付く(成長する)ことで元の世界に五実だけが戻れるという展開になる。
つまり『ビューティフル・ドリーマー』では夢から醒めても『うる星やつら』世界を我々観客は享受できるが、『アリスとテレスのまぼろし工場』ではキャラが成長してしまうともう彼らは消滅してしまう。そして時が進み続けているこの現実だけが痛いほど露出する。

楽しい非日常に埋没せず恋をして日常に還れ(だがその日常も戯れたまま成長できないグロテスクなユートピア的ディストピアでしかないが)、というのが『ビューティフル・ドリーマー』。
灰色の日常を繰り返さず恋をしてその世界を壊せ(だがそのひび割れの先にあるこの現実の世界は果たして幸せか?)、というのが『アリスとテレスのまぼろし工場』だ。

◼️灰色の日常をやり過ごす我々
『アリスとテレスのまぼろし工場』を見れば「この繰り返す無味無臭の日常は我々の今のこの現実世界のことだ」と気付く。
彼らが見伏で毎日繰り返しているような日々を我々は過ごしている。
周りに同調することが良しとされ、周りから外れる行動をしてはいけない。
恋のように大きく感情を動かしてはいけない。
妊娠することに否定的な人がいたり(本作では妊娠したまま出産日が永遠に訪れない妊婦が登場するというグロテスクさだ)、正義を振りかざして言葉尻をとらえ叩きのめそうとする人がいる。
コロナ禍以降、特にそういう「変わらないでい続けろ」と強要してくる人が増えた印象だ。

もし仮に、コロナ禍により全てが止まってしまった今のこの社会が見伏に例えられるとすれば、緑色のひびの向こうにある時が進んでいるキラキラした社会は何を意味するだろう。
もしコロナ禍にならなかったら、日本は輝かしい幸福な社会だったろうか。
もちろんそんなことは無い。
コロナ禍になろうとなるまいと、元々この社会は終わっていた。クズは相変わらずクズであり、コロナ禍によりクズどもがあぶり出されたから目立ってるだけ。クズの因子はどこにでもすでに居たのだ。

◼️二重の悲しみ
この作品がなぜ二重の意味で悲しいか。
それは同じ日々を繰り返す見伏の住民達の方が実は無味無臭で現実に取り残されてしまった概念のような存在だったというストーリーとしての悲しさが第一層。
そして見伏のような無味無臭無感情なコロナ禍以降の社会でも、コロナ禍以前のような社会でも、どちらにせよ元々この社会は狂ってたし終わりに向かってた、という現実的な悲しさが第二層だ。
この作品自体が悲しく、この作品が訴えるようにこの社会自体がすでにずっと悲しい、ということだ。

『ビューティフル・ドリーマー』で描かれた「永遠に繰り返す学園祭前日」というのは時代を批評していた。
狂騒に浮かれ同じ日を繰り返していることに気づいていない。
でも今考えるとそこにはハレ(晴れ)があった。

『アリスとテレスのまぼろし工場』では逆にケ(褻)の日常が繰り返される。
淡々として喜びがない。まさに2020年以降のこの日本だ。
しかもその日常は匂いが消え、感情も認められない。同じ毎日を同じく繰り返すことを強要される。

だが本作は救いを描く。
それは「恋」だ。

◼️感情をかき乱すという突破方法
恋をしてしまうと日常が壊れる。
生活世界が崩壊する。
だがその価値が「恋」にはある。
「恋」は自分が自分じゃなくなる。普段しないようなことが出来てしまう。思考が想い人へと傾く。思わず走り出したくなってしまう。景色が色付く。夕陽が美しく感じる。この世界ごと尊く感じる。
だから、日常が壊れるくらいどうってことない。
それが「恋」だ。
今見ているものがまぼろしかどうかは関係ない。まぼろしだろうが現実だろうが。空虚だろうがなんだろうが。恋をしよう。
見伏に閉じ込められた主人公二人は恋をして五実は現実世界へと戻れた。現実世界の五実の両親は恋をしたせいで幼児の五実(本名は菊入沙希)が行方不明となり10年近く後悔の日々を過ごすことになる。まさに世界が壊れたかのようま毎日だったろう。
沙希の両親が恋をして沙希が生まれ、その後行方不明になり、見伏で沙希が生き続けたことで主人公二人が恋をして、そのおかげで沙希は現実世界に戻る。

沙希にとっては成長の物語。
主人公二人にとっては恋愛と喪失の物語。
沙希の両親にとっては喪失と再会の物語。
それぞれ感情をかき乱され、日常が壊れ、その先に感動がある。
感情が動かされるのは決して良いことばかりではない。
だけど感情が動かされる経験はとても尊い。
感情を止めたままでは何も始まらない。
さかもと

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