このレビューはネタバレを含みます
《何かを待ち続け消費するだけの無限地獄を彷徨うことでしか俺は報われないのか》
『タクシードライバー』の脚本家オッサンでお馴染みポールシュレイダーが今度はムショ上がりのカジノギャンブラーの話を監督した。 今度は、と言ったのは前作『魂のゆくえ』からはまるで180度違う作風から危なっかしい男を描いているんで、男の境遇、行動の動機、ラスト、そして作劇の演出に至るまで全部裏返しなのだが、不思議と同じコインの表と裏のような関係性を思わす。
そしてコッチの危なっかしい雰囲気構築、男の佇まいが私にはもうホームラン案件。痺れました。
ベルイマン古典の神経質なドライさとは打って変わるフェティッシュな緊張感。宿命を背負った男の規則に従う雰囲気に画面が支配されてるような作風でグイグイだ。そのため時々その調和が狂うように変則的なカメラワークをしたり、ロングショットが現れたりと技巧的になる。なんせ初っ端から緑の布地をバックにレトロなフォントのクレジットを出してくる。布地は緑のカジノテーブルにオーバーラップしカードをひっくり返す音がドーン、ドーンと危険な世界に入り込むこのフェティッシュ。そしてこのピリッとした画面ルックときた。
「俺が刑務所の暮らしに向いているとは意外だった」と出所したシャバの暮らしと対比させる形でポールシュレイダーの最重要モチーフとなる内面モノローグで状況を募る。男の頭に溢れるノイズが幻想的なトランスミュージックで全編、不気味にも高揚的にも煽る。なにより今回雰囲気構築に最も貢献しているロバートレヴォンビーンの音楽がヤバい。つねにインダストリアル的な悪魔の囁きのような声が聞こえているのです。しかもロバートレヴォンビーンがやおら歌い出した時の病みフェティッシュときたらもうアシッドで、これがポールシュレイダーのウジウジした作風に抜群の化学反応が。
そんな奴を演じるオスカーアイザックだが、ついに代表作きたか、ってぐらい非常に素晴らしい。いい具合に何考えてるか伝わると思ってると全然読めない演技力が物語を牽引している。それを代表する性格として身の回りの家具を片っ端からシーツで包み生活する癖がある。彼はウィリアムテルと名乗るのだが、14世紀の弓の名手と同名でその人物を暗示してるというより過度な薬中小説家ウィリアムバロウズの"ウィリアムテルごっこ"を思い出した。『裸のランチ』でお馴染みだが妻の頭にグラスを置き射的する遊びを誤って射殺した狂ったエピソードであり、このような異常な精神を示唆してるようだった。
ポールシュレイダー作品はひたすら後悔と向き合い続け、それが宿命であるように生きがいをなくしてしまった人物を描いてきた。誰かを救おうとしたり誰かを救えなかったり、自分を救えなかったりの心にポッカリ空いた穴を自問自答する作業として様々な職業柄を扱ってきた。誰かを救う業務がもはや自問自答になってしまう『救命士』では露骨に現れていた。
ウィリアムテルの場合目立たぬよう少ない賭けをまるで作業のように繰り返す中、脚を組んで太もも露わとなった女性の存在感に目がいく。ポリシーに反すると分かっていても、声をかけられたキッカケで欲望が勝り関係を持つ。
加えて今回はわかりやすく人間失格の加害としてアブグレイブ刑務所の悪行の過去が明かされます。なにせ本作を最も強烈づけるフラッシュバックであり広角レンズを両目に装着したかのような主観映像から最悪の地獄絵図が流れる。
その過去に携わった加害者の息子が、更なる負の連鎖を計画してる様子に引っ掛き回され彼を救うことにせめてもの自己救済が得れると決断する。
本作のラストは実に救いがない展開が用意される。その構造は心の傷と向き合う後悔が、後の祭りとしてまたは中盤の大悲劇として発生したことに苦悩するポールシュレイダーの映画において、それらを物語ったその先の後悔で締めくくられる。
ウィリアムテルにとっては踏ん切りのつくシナリオだったかもしれないが、諸々を表す内面モノローグの反復による見事な演出は単に振り返りモノローグ目線(それこそ日記的な)の物語構造が明かされるオチと同時に"後悔"が二段階積み重なった同様セリフとして聞こえが変わってくる。
確かにやや(主人公にとって)ご都合主義な展開も否めぬが2時間の映画の中で、色々向き合って頑張ったのに結局報われない的虚しさが強烈に胸打つ自分にとっては涙したエンディングだった。だからこそ不器用だった自分を悔いてもう別世界となったガラスを隔て指を重ねる無言の時間が丸々エンドロールとなる演出が非常に素晴らしい。
そしてサントラも素晴らしいという雰囲気ゴリ押しな魅力と共に鷲掴みにされた一作でした。