なっこ

ある男のなっこのレビュー・感想・評価

ある男(2022年製作の映画)
3.5
原作を読んだのは2019年。それからすぐに映画化の話を聞いたように思う、今回は全く読み返さずに鑑賞した。
それが良かったように思う、読後すぐに見てしまうと省かれたシーンだったりセリフが違ったりするところにばかり目がいってしまっただろうから。
原作から離れて、映画としてのメッセージをきちんと受け取ることができた。これはとても幸福な婚姻、映像への素晴らしい翻訳だったと思う。映画の文法でしっかりと作品世界を捉え直して提示してくれている。省くべきところは省き、重くするところはしっかり重くする。特に主人公城戸とある男のふたりをどちらも同じくらい大事にして両方しっかり描き切ったところが良かった。

実は、原作を読んでいる間私の脳内で城戸は完全に反町隆史さんだった。もちろん妻夫木さんに不満があった訳では無いけれど。冒頭からある男である窪田正孝さんのstoryが先行して描かれるので城戸の出番はなかなか訪れない。それでも、彼が登場した瞬間に、そうそう城戸という男はこういう男だったのよと思わせるほどの、説得力のある素晴らしい登場シーンだった。言葉では上手く言えない。妻夫木さんの作品をたくさん見ている訳ではない。それでも私がイメージした主人公城戸と彼が演じ具現化した城戸があまりにもピタリときてちょっと感動してしまった。この役はほんと彼以外誰も出来なかったかもしれないなと思うほど。

映画『おくりびと』の中では石文(いしぶみ)が効果的に使われていた。今回の映画では、ある男が宮崎で木こりになっていたことからか、一本の木の佇まいが効果的に使われていたように感じた。私が原作から感じたのは木よりもっと多い森といった大きな自然だったけれど。でもそれは、原作の中にある長男の俳句と響き合うものがあって、とても良い表現だなと感じた。

小説では後半になっていくにつれてこの長男が作家の分身なのではないかなと個人的には感じていた。彼自身の成長が物語自体の前途を明るくしているように感じて私は安心して本を閉じれたように思う。しかしこの映画ではもちろん主役は主役のままで終わる。語りの舞台は実は始めから終わりまで動いていない、そう思わせるラストシーンが非常によく出来ている。思わずかっこい〜と声に出しそうになったほど。とても印象的な絵画が用いられているのだけれど、原作ではその絵画への言及を読み飛ばしていたのかもしれない、だから、もう一度読み返してみようと思う。

戸籍にある名前と、その人自身と、その人が親から受け継ぐ身体的な特徴や性格、それらは全てバラバラに切り離して、考えても良いはずなのに、多くの人はすぐにそれらを単純にくっつけて、乱暴にその人を判断しようとする。その人自身を形作るものは、そんなに単純に組み立てられるものではないはずだ。

その肉体から自分自身を取り出して、全く違う自分を生きたいと、心の底から願う人の声を、どれだけの人がちゃんと聞き取っているだろうか。逆に言えばどれだけ無責任に、そんな差別は今はないとか、そんなパワハラ上司の言葉聞かずに逃げりゃあいいだろ、とか問題を単純化して切り捨てているのか、今一度考える必要がある。

私が主人公城戸に好感を持つのはたぶん彼はちゃんと考えたからだと思う。ある男Xに強烈に惹かれ深く考え、そして自分の人生の歩き方を少し修正する、そんな柔軟性に惹かれる。この映画ではその部分をもっと魅惑的に描いている、それがとても面白い。そしてお洒落だなと感じた。その部分が映画の文法にも上手くハマっているはずなので世界的にも通じ国際的な評価にもつながったのではないかなと思う。

映画と小説は別もの。けれど、贔屓の作家なので、映像化されることで彼の評価がもっと世界的なものになることを私は常に期待している。この映画はとても素晴らしい出来だったので、見た人の多くが小説を読んでくれることを期待したい。
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