【追いかけても追いかけても離れていく...】
第22回東京フィルメックスで上映された塩田明彦新作が一般公開された。私の周りでは、凄いという声が相次いでいる。正直、『さよならくちびる』が全く合わなかったので、大丈夫かなと不安だったのですが杞憂でした。予告編こそ、インディーズの青春キラキラ映画のように見えるが、実際には青春キラキラ映画の文法をトコトン破壊した前衛映画でありました。これがとても面白かった。
学校に居場所がない由希(新谷ゆづみ)は弁当を食べる場所を探して校内を彷徨う。行きつけのベンチに行くと、先客がいた。麻希(日髙麻鈴)だ。何かに惹かれるように、由希は彼女の近くでご飯を食べ、自転車で彼女の後を追う。雑貨屋でバイトしていることを知った彼女は、早速履歴書を書いて同じバイトをしようとするが、面接中に「今までありがとうございました」と麻希はバイトをやめてしまう。掴めそうでウナギのようにヌルッとすり抜けていく、これだけでファムファタールの強烈な香りを感じさせる。関わったら悲劇に繋がるのに、どこか重力に引き寄せられる感じがプンプンに漂っているのだ。この直線的、追う/追われるの関係は、外側からのノイズによって複雑になっていく。由希を想う祐介が自転車で追いかけることで関係性が逆転するのだ。追う/追われる、追われる/追うの渦の中でようやく由希と麻希が結ばれ自転車で併走していると、今度は警察官が後ろから追いかけてきて二人を引き離す。この自転車描写だけでも他の青春キラキラ映画と一線を画するものを感じる。
またピンク映画出身の廣木隆一が2010年代後半に青春キラキラ映画作家となったことに対抗するように、本作では10分に一度の濡れ場シーンというロマンポルノの文法で独特な奇譚に仕上げている。ロマンポルノは、一定のルールに従い自由に映画の可能性を模索していった。本作の場合、青春キラキラ映画あるあるを徹底的に外しにいく。例えば、軽音部のライブ場面。なぜかインストゥルメンタルなのだ。歌わないのだ。歌われるのは、由希と麻希が練習する場面のみとなっている。この練習シーンも異様であり、遅刻した麻希に仲間がキレるものの、彼女が歌い始めると、ドラムを叩き始め、音で会話する。仲間割れの前に、音で繋げ、その後決して戻らぬ破壊をもたらすのだ。これが非常に重要である。麻希は人を一旦引きつけた上で全てを破壊する女で、本人もそれを自覚している最凶のファムファタールであり、その性格を映画に落とし込む上で、一旦仲間が一つになる場面を挿入しているのだ。
塩田明彦のファムファタールに対するこだわりは更に続く。由希と麻希が親密になり、バンドとして上手くいきそうな予感を匂わせた次の瞬間に由希が涙を浮かべながら絶望的なライブをしてしまう場面にジャンプする。間に何があったのかはあまり語られない。
学校にも家にも居場所のない彼女は『少女ムシェット』のように林の闇に導かれ、男に犯される。そして麻希にも引き裂かれ、彼女はあるものを失ってしまう。それでも麻希を追い求めてボロボロになりながら自転車を走らせる。悲しいことに、彼女を彩る世界は後光に包まれていた。その光景に私は涙した。
青春キラキラ映画の骨組みから、漆黒のファムファタールへと導き、重厚な自転車捌きと、鋭い省略で観客を異次元に連れ去った傑作であった。
※cinemas PLUSさんにネタバレありの寄稿しました。
<考察>『麻希のいる世界』で観る“推しの沼”↓
https://cinema.ne.jp/article/detail/49003