くじらめくじら

叫びとささやきのくじらめくじらのネタバレレビュー・内容・結末

叫びとささやき(1972年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

この映画では女性の性が死(もしくは生)と繋がっていて、普段は隠されているそれが露わになった時、周りの者は恐怖しそれに関わること、触れることを拒むということなんだろうか。これはキリスト教的なものだろうけど、死への恐怖という意味では普遍的な感情だと思う。個人的にはハムスターが死んだ時に硬直した身体が怖くて触れなかったことを思い出した。卑近すぎるけど。
でもそんな中、召使であるアンナだけはそれに徹底的に向き合おうとする。度々登場する「私がここにいます」という台詞が印象的だった。救済論的な意味合いがあったり?
ただ、アンナはその他2人の女性と違って死んだイングリッドと血が繋がってはいないので、姉妹であるが故の拒みみたいなものもあるのかもしれない。真っ赤な室内の家は血の象徴かも。そうした女性たちの家にぷらぷらやってくる男性たち(医者、愛人、夫、牧師)の徹底的に無関心な様子が、より彼女たちが「女性」であることを際立たせている感がある。

映画の中で死を描くことの効果的?なやり方は、死にゆく身体を映すことだと思うけど、この映画では身体の形態の急激な変容、特に苦痛による顔の筋肉の歪みが、観ているこちらが不快になるまでに映されていて、それがそのまま、死という不可知なものが実世界においてリアルに現前する出来事として表現されているようで凄まじかった(というかグロテスク、全体としては冷たい画ばかりなのに)
イングリッドがベッドで苦しむ様は陣痛にも見えるので、死〜性〜生ともいえそう。赤ん坊の泣き声とかもあったし。
アンナは常に姉妹たちの身体のすぐ近くにいて身辺の世話をしているわけで、他の人物らにとっては避けられるべき死と性のすぐ側でひたすらに雑事におわれ心を労するアンナのあり方は色々考えるきっかけになる。神の不在が一つのテーマではあるだろうけど、アンナの存在はある意味(逆説的に?)神的といっていいんじゃないか。もしくは愛?

ラストのイングリッドが現世に戻ってくるところ、生前の日記が読み上げられて姉妹との幸せな過去が語られるところは、結果的に性と死、女性としての身体が姉妹間で共有されることはなく、彼女たちのそれぞれの生がひたすらに疎外されつくしてしまったことの絶望を感じさせる。
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