【”見えているのに見ていない”】
真実はすぐ近くに宿っているのに、それが見えていないことの危うさが辛い。
見えていない=存在しないも同然、という恐怖が、透明という見えない色彩を象徴する”水”をモチーフに淡々と描かれている。
抽象的で掴みどころがないのは否めないが、言わんとすることは何とくなく”見える”気がする。
二人の母の不安。
母という存在は、子を宿すことで、ある意味それまでは透明だったものに形を与える存在、つまり”見えなかった”ものを”見えるように”する存在だと思う。
“見えていない”のにそこに確かに存在している母娘のつながりの糸。
人間は透明で見えないものに知らず知らずのうちに支配されているとも言えるし、見えないことによって無視という怠慢が生まれてしまうのかもしれない。どちらにせよ、つねに不安がつきまとう。
“見えない”、”見ようとしない”ことは恐ろしい。
はたまた、俯瞰した角度から眺めると、救える距離を越えてしまったことによる魂の贖罪の物語とも言えるかも。つねに、ディテールを大切に。真実は細部に宿っている。
馬の交尾に触発されたあとのカローラの夫のカットが、ギリシャ神話の好色の半身半馬ケンタウロスを彷彿とさせるものであることや、アマンダがカローラの一つひとつの仕草を物欲しそうに見つめる様子など、映像のこだわりが随所随所で光っている。
考え出したら、とっても考察に富んだ作品だったと思う。
P.S. アマンダ役のマリア・バルベルデはほんの数週間前に配信された『Fuimos Canciones』で今作と打って変わったコメディぶりを発揮しているので、コチラもCheckしてね!