都部ななみ

オッペンハイマーの都部ななみのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5
2024年公開映画暫定ベスト。
原爆の父の産みの苦しみを噛み締める至極の180分。
ノーランが作家性として趣とする時間軸の巧妙な交差と共感性の高揚その集大成的な結実への興奮、そして科学者ひいては人類の罪過:原爆と対峙する重厚な史実劇としてあまりにも完成されている。

期待感を煽られ続けた映画が野心的な大傑作で嬉しい限り──立ち上る業火を背景として、プロメテウスの一節の引用から口火を切る冒頭から物々しい。目まぐるしく繰り返される複数の時系列の導入部への転換とそこに挿入される特撮を駆使した原子軌道の幻視シーンは、ノーランが志す追体験型の映画の始まりとして十全で、この時点で心を掴まれる。

本作の特徴として絶え間ないマシンガン型の会話劇があるが、科学用語の羅列はあくまでも専門的ながら、政治的立場の軋轢を示す感覚的な遣り取りとして違和なく提供されるのは脚本が洗練されているからに相違ない。数式を楽譜として準えるセリフが作中序盤に存在するが、かように流れに身を任せるも良し人物や歴史的背景を踏まえながら読み取るも良しと。
正しく万人向けに本作の複雑性を複雑なままに台詞を通して呑み込ませる所作として示し、それがやはり功を奏しているのだ。

この会話劇が齎す心地の良い俊敏なリズムは、
オッペンハイマー同様に観客が焦燥感を煽られる形での当事者性の付随にも繋がっている。並行して進行する二種の公聴会から得る印象を差別化すると共に、物語の山場である原爆開発を旨とするトリニティ計画の実行に向けた緊張感の高まりとしても強く作用していた。

観客として安全圏から目にする。

そんな前提がありながらも、トリニティ計画実行日のシークエンスは驚異的な緊張感に包まれる覚えがある。ニキシー管のカウントが0へと近付くに従って自分の身の安全が爆発に脅かされるのではないか。そんな鬼気迫るような恐怖が感じられた。そして原爆開発成功の意味を知りながらも、その成功への喜びにも似た感覚がこちらに否が応でも共有されるため、この共感性の高さこそが本作の凄まじさだとよくよく思い知らされる。

映像的絶頂という意味では前述のトリニティ計画がひと角を担っているが、個人的に映画として映像と音響と比喩が一体となった最上の場面は原爆投下後のオッペンハイマーによる演説だ。

作り上げた産物の行使権が呆気なく剥奪され、組織に準ずる他ない科学者としての無力を味わいながらも迎える一幕。

万雷の拍手を他人事のように迎えながら、視界に広がる人々の狂喜の反応から自分の罪過の責任を幻視と共に自認する この瞬間の素晴らしさって最高だ。火柱が上がってから暫くして爆発音が轟く原爆のメタファー的な場面としてなにより優れているし、研ぎ澄まされた静と動の音響の妙と被爆者のイメージの幻視がピタリと嵌るのを見て『この映画を劇場で見て良かったな……』と惚れ惚れした。これは同時にオッペンハイマーが目の前の”偉業”から当事者性を失い、それが自分の引き起こした大きな罪であることを思い知る──その機微まで含めて体験させてしまうような、ノーランのひとつの作家性の極点のような場面ですらあるだろう!!

それらの功罪に対して、
本作は戦時下であることを思わないほどに直接的に戦場を描いていないのも絶妙。戦争から切り離された科学者や米国人の一般的な視座のありのままの維持を示していて、だからこそ理論から悲劇の重みを算出したオッペンハイマーの危機感の重大性としても機能しているわけだ。この史実に対してのナラティブ性の芯を外さない作りにこそ、原爆の父を描く上での誠実さを感じた。

原爆投下以後から物語は時系列の交差を妙とするサスペンス性を帯びた異端な法廷劇──これは裁判ではないという結論ありきの封殺が憎たらしい──へと雪崩込み。より野心的な時系列の操作が目立ち始めるのが愉快で、水爆の推進の是非を軸にオッペンハイマー事件とストローズを巡る公聴会の交差に従ってキリキリとその焦点が本質へと絞られていくのが超気持ちよくて……オッペンハイマーとストローズの対比性が明瞭になっていくのも宿命の描写として印象的だ。

”プロメテウスは神から火を盗み人間に与えた
それゆえ、彼は岩に繋がれ永遠の苦しみを与えられた”

オッペンハイマーの人生は一旦の決着を迎えるも、改めて結末部分では彼の罪過に終わりがないことが明示され、過去の人物を巡る史実劇では決して終わらせないという意志を示す──そんな彼の葛藤で幕を閉じ、この映画を現実への橋渡しとするところまで含めて本当に見事な映画だった。
都部ななみ

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