このレビューはネタバレを含みます
この作品をアメリカ人が書くべきかどうかを終始考えてしまった。いや、アメリカ人だからこそ書くべきなのかもしれない。
この作品を観ていて考えたことは、オッペンハイマーはたまたま、核兵器を作ってしまったに過ぎない。例えば並行世界があれば、然るべきタイミングで同じような、世界の様相を変える兵器がどこかの国にできていておかしくはない。
そういう観点でいくと、オッペンハイマー氏は後世からみると、責められるべき人でない。
最後の方、トルーマン大統領も言っていたが、最終決定をしたのは政治だ。
アメリカは民主主義の国だし、誰に責任があるかを考えると、恐らく国民なのだと思う。
日本は確固として被害者と思っている。原爆の被害者だと。でも、アメリカから見ると、自らもっと早く負けを認めていたら、原爆は日本に落ちなかった。
できなかったを個人的には理解はしているつもりだが、私は日本という国は同じ過ちを繰り返すだろうといつも思っている。
冒頭のアメリカ人がこの映画を作るべきだったかどうかなのだが、
努めて平等にモノ見ようとした、クリストファー・ノーラン監督である一方で、これら第三国の人間が作るべきだったかもとも思う。
私も原爆に対する描写が甘いと思うし、(逆にそれが調べるきっかけとなるという見方はあるが)結局アメリカ人じゃん、という批判を免れえないと思うからだ。
アカデミー賞も、オッペンハイマーとゴジラ-1.0にそれぞれ賞を与えているが、忖度だよなぁ……という気もしてしまう。
何にせよ、この映画を退屈で終わらせてしまうなら、核の使用を選んだ、アメリカの政治屋となにも変わらないということを自覚するべきだと思う。