このレビューはネタバレを含みます
《永遠の贖罪意識、または私は如何にして心配するのを止めて原爆を愛するようになったか》
物議を回避すべくアカデミー賞受賞タイミングで日本でもようやく公開されたノーランの新作。日本国民のトラウマの元凶であり人類に核兵器を齎した歴史のパブリックエネミーをあのクリストファーノーランが伝記化という奇妙な組み合わせに首を捻っていましたが観ると興味深い結果が待っていた。確かに題材が題材なだけにこれが日本で8月に大ヒットとなるのは縁起が悪い映画だが、かつ『ダンケルク』で戦争映画なのに血を一切観せないほど直接的に観せない主義のノーランが、まず原爆の被害を描かないだろうことは想定内だったがむしろノーランの観点は科学技術が行き着く果ての代償を人類はすでに背負っている事実をウクライナ、ガザで世界が大変になってる今こそ再認識させることに結びつけた。科学の進歩に夢を馳せるノーラン映画とは裏腹にノーランの世代の現実は核戦争の脅威に怯えていたと語るインタビューが印象的で、観せない作家主義なりの核のルーツに迫る作品となっていた。では、そんなパブリックエネミーの主人公をどうドラマに落とし込むかが非常に秀逸であった。彼の人物描写には自己欺瞞やジレンマを背負っていく顛末を描きがちで、余儀なくされた状況や心理を騙し込んで決断する人間ドラマは『メメント』『ダークナイト』『インセプション』『テネット』と多岐に渡り、特に『プレステージ』の二人の男の因果関係をブラッシュアップさせてるのが今回の路線だった。これらに当てはめて考えるといつも以上に時系がトリッキーな構成も説得力をもって描かれていた。
ただまあ、端的にオッペンハイマーという人物の好感度を印象操作させてる感があり それに反比例してノーランの真面目っぽさが必要以上に伝わる節もあり、実質裁判劇というプロットを借りて3部構成仕立てた"薔薇の蕾"型ミステリーに比重がずらされていくので、あれほど期待を煽られたノーCGでトリニティ実験という前代未聞ぽさは単にみんなで爆発を眺める花火大会みたいな見せ場となっていた。ま相当目を見張る"特撮の"見せ場ではあったんだが。
それはさておきキモは本編の発端となるルイスストローズがアインシュタインに無視された早とちりでオッペンハイマーを逆恨みする挿話の時系をぼかしたこと、薔薇の蕾に配置したことで回想の軸だと最後に明かされることとなる。加えてこの挿話はオッペンハイマーに贖罪意識が芽生えた段階でもあり、ノーラン的な妄念に拗れたジレンマが恰も最初から混じり込んでいるように回想に差し込む。更にこの挿話をモノクロに色分けされたルイスストローズの目線として提示し、ここからオッペンハイマーを逆恨みする物語(モノクロパート)が始まるキッカケでもあった。『プレステージ』を応用させた逆恨みしてくる男との対立は彼の策略で聴聞会に出頭することとなった映画の頭から始まっており、ストローズの物語として彼個人の公聴会がオッペンハイマーを糾弾する目線も回想と並行する。『ソーシャルネットワーク』が発明した2つの法廷から物語を組み上げる手法を参照し、面白いのは3幕目で繰り広げるモノクロ編でなぜ密室の聴聞会なのか?やたらソ連のスパイ疑惑をかけられるのか?がドンドン明かされていく仕組みになっている。このまどろっこしいロジックで巧みに好感度を操作できているんだけど、相変わらず真面目やなあという思いも込み上げる。
というのも、驚くべきことにオッペンハイマーがマンハッタン計画に乗り出すまでの、まだ何者でもない凡人オッペンハイマー編が1時間ありやたら長い。そのため純真無垢な精神で才能が開花していく一人の科学者として間口の広い人物像で持っていく。またそれとは別にオッペンハイマーの人物像や行動原理なんかがノーランぽいと思える感想が個人的にあって。特に冒頭のオッペンハイマーの直感的な閃きのモンタージュが映画監督のアイデアや発想が無数に生まれるが具現化するまで誰も理解できない頭の中を、ルドウィグゴランソンの神秘的なスコアに載せ追体験させる画と音の洪水がなんとも素晴らしかった。ここは第二のハイライトってほどスペクタクルで私的にはトリニティ実験より盛り上がったし、IMAX鑑賞を選ぶならここが見どころでしょって感じた。そしていざ具現化の段階に入ると苦悩が吹っ飛び、街を一個開拓する突飛なプランに周りがついてゆけなくなる働きぶりを明朗快活に打ち出す。こういった精神がノーラン自身の理念と重なったりリスペクトを感じる部分もあるから活き活き描けるのかと。あと神経質そうなカリスマ性もなんか似たルックスだし「重力は光を飲み込む」と語らい弟と天体観測する場面なんかモロ本人かと思った。
そういったカリスマ性で量子力学の認知が少ない時代に啓蒙させてゆく過程では、その分野の一人の生徒に基礎から説明し直し画面を切り返すとドンドン生徒が集まっている。ドイツがウランを核分裂させた偉業に感化され「実に面白い」と福山雅治の如く目を光らせ悪化する政治情勢もお構いなしに兵器化のアイデアを思いついてしまう。何者でもない科学者としての探究心がいつしかナチスとの開発競争に傾倒していく様子をビジネスの成功、プライベートの充実にきな臭さが覆われていく。それは意図せず自分が軍人に成り代わっていく事に象徴され、後に旧友ラビから「軍人の服を着替えてくれ」と指摘されるのが印象的だった。前半部はそれらを深刻に捉えず邁進してしまうがため後の展開に刹那が生じるプロセスで、主にセフレ感覚で関係を持つジーンタトロックのあまりの情緒不安定体質を蔑ろに思ってた件、共産党活動を続ける部下、ナンパで知り合った奥さんの過去で赤狩り疑惑に引っかかりロスアラモス界隈は赤いと見なされる。
そんな中ナチスの解体で計画の意義が問われるも開発を進めるエゴに徐々に好感度を曇らせる中、懸念の対象はむしろ物理学者が最も嫌がりそうなゼロに近い仮説の可能性に向く。彼らは理論と合理性を優先的に考えるがあまり政治家側は旧日本軍が敗北してても最後の一人になるまで襲ってくる狂った人種と当時は捉えられ神の力を掲示する必要がある、結果的に無駄な命を無くさず済む思想のもと実行され、オッペンハイマーは投下される悲劇で、今後誰も核戦争など考えなくなるという大義名分を語る。ところが現実は異なり第三次世界大戦の恐怖(冷戦の脅威)に見舞われる現象を大気の引火と名付けた比喩でノーランはピックアップする。オッペンハイマーがラストで思い浮かべた絵空事のようなビジョンは冷戦の暗示でありつつ、核兵器が存在する世界に変えてしまったこととは『博士の異常な愛情』の破滅的なラストもゼロではなくなった大胆な比喩で史実とサイエンスフィクションの距離感をクレバーに考察した。そこに関しては改めてノーランの仮説式風呂敷の面白さを再認識でき、薔薇の蕾構成でそれを悟ったオッペンハイマーがもっと深刻に悩むべきだったと反省して終わるも時系上過ぎた出来事で、彼の運命を明確に変える引き金だった。ただ気になるのはなぜアインシュタインが無視したかで、薔薇の蕾的にはその種明かしのもう一捻りだと思うが。
またノーランには珍しくオブセッションに囚われた一人称で内面描写をする映画で、随所に見られるが、あのラストシーンと個人的に気に入った冒頭部に絞ったほうがよいかと思った。時系列操作云々より幻覚がややこしくさせる原因と感じたし、確かにマンハッタン計画直後の大衆の面前で、思わず原爆犠牲者と重ねてしまい消失する光景や聞こえるはずない一人の女性の悲鳴が耳で聴く心霊写真的演出であっと驚いたが、決め手にはならなかった。しかし英雄視ムードが加速し本人は嫌悪感を抱いてゆく結果が原爆の父として一人歩きし、胡散臭い大統領との対談→ 退室するとストローズのナレーションが追加され記者だらけの廊下を闊歩するモノクロに変化し華麗にストローズ編へスライドする。オッペンハイマーがジレンマを背負い切ったポイントでストローズからの批判へ移るこの流れは完璧だし、ここは奇しくもNetflix版『三体』の最悪すぎる人間の冷酷さと強烈にダブる怖さがあった。大統領の無神経さに引くオッペンハイマーから、科学進歩の使い道と傲慢さを持ち合わせる人間とが限界あると『三体』と合わせて学べる部分だった。
ストローズからの攻撃では実は内助の功を尽くした奥さんの方が苦しめられるなど後悔の洗礼を受け入れるパートを用意したことで、しかも敵味方をわかりやすくしたアツい法廷劇で飽きさせないおかげで変なプロパガンダを上手くかわしている。
日本人には賛否両論な案件ではあるが、この取扱注意をこれだけの完成度で仕上げたのは流石としか言いようがない。時代遅れのアカデミー賞もこの機を逃すまいという受賞のさせ方含めノーラン映画の評価の移り変わりとなりそうな印象であった。