プリオ

オッペンハイマーのプリオのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5
人類は巨大な知性により高度に発達した文明を築いていったが、同時に地球を滅亡に追い込む脅威的な力も手にしてしまった。

その巨大な知性と脅威的な力と、我々人類はどう向き合っていくのか・・・。

世界を支配しようと欲望を肥大化させていく人間に対して警鐘を鳴らし、欲望のまま突き進むのではなく理性的になることの大切さを問う、ノーランの渾身の一作でした。

結論、非常に見応えがあり、めちゃくちゃ面白かったです。

ノーランは、過去作を見る限り"人"を描くのは不得意だと感じていたが、今作では一人の天才科学者の心を複雑かつ多面的に描くことに成功しているように思えた。

また、今作は伝記映画というジャンルにはなるが、ノーランの特異な時間と空間の捉え方は、過去作と同様に冴え渡っていた。2視点かつ複雑な時系列での物語進行は、これぞノーラン節と言ったところだろう。正直、キャラの多さも相まってついて行くのに必死だったが、ノーランの作品の中では比較的分かりやすい部類にはなる思う。

またこれもノーラン節だが、キャラとの距離間が相変わらず離れているように思えた。圧倒的な俯瞰視点で物事を捉えたり、自己と映画との距離を離して映画制作ができるのは、ノーランの能力の一つだと思うが、今作でもその毛色は多分に感じられるものだった。

今作においては、観客とオッペンハイマーの間に一定の距離間があったように思う。脚本はオッペンハイマーの1人称で書かれたものに関わらず、そう簡単には感情移入させないような作りになっていた。

オッペンハイマーはノーランの映画の中では比較的感情移入しやすいキャラだとは思うが、それでもやはり、オッペンハイマーに感情移入して、泣いたり、怒ったり、苦しんだりするには至らなかった。

本来、このキャラと鑑賞者の距離間が狭い方が、鑑賞者はキャラに感情移入しやすく容易く感動もできるわけだが、ノーランはそれをしないのだ(いや、ただできないだけでは?という話もあるが、それはここではしないでおく)。

ノーランはグッと心を掴み感情移入させて揺さぶるような分かりやすい感動のさせ方はしない。観客にしっかり考えさせてキャラの心理を読み取らせるようとする。そのための余白を大事にしている。だから彼は映画において全てを説明するような事はしない。そしてそれはノーランの観客に対する真摯な姿勢な現れでもあり、彼の真面目な性格を物語っているように思える。

「映画は物語を語るメディアだから、観客を主観的な経験の中に引きずり込み、登場人物が判断する出来事に、自分だったらどう判断するのか考えさせるのに適している」
ーノーラン


ここからは、オッペンハイマーとノーランの共通点について話していきたいと思う。

それは、二人とも「創造者」であるという点だ。

オッペンハイマーは、原爆。
ノーランは、映画。

そして、そんな創造者特有のジレンマや葛藤を、二人とも同じように抱えていたんだと思う。

ノーランは、今や世界的に有名な映画監督だ。そんな彼の映画は世界中で公開され世界中の人々が見る。そして彼の創作物が人々に植え付けられる(インセプション)。その結果、感情、思考、行動、現実、そして世界が変わる。

僕は映画という創作物には大げさ抜きでそんな強大な力があると思っている。事実、ヒトラーは映画という媒体を使って人々を洗脳したという歴史もあるし、その結果、多くの悲劇的な出来事が生まれたし、それは世界をある意味で変えてしまったとも言えると思う。

映画には恐ろしい程の力があり、人の人生を左右するものであり、世界の在り方を変えるもの、なのだ。それはオッペンハイマーが生み出した原爆ほどの物理的な力はないにしても、世界に影響を与えるという意味では同じなのだ。

そんな意味で責任重大な創造者には、創造者ならではの大きなジレンマや葛藤が存在することが少し分かってくると思う。

それは、
自分の創造物が、世界の在り方を変えてしまうかもしれない。
自分の好きなものが、世界を不幸にしてしまうかもしれない。
でも、それでも、作りたい。
いや、そんなの、ダメだ。
といったものだろう。

ノーランが様々な映画で模索しているテーマに『知識の危うさ』がある。それは"一度知ったら元には戻れない"という意味を指すが、そこにノーランの知識に対する畏敬の念を感じる。あるいは知識を得ることの恐れひいては知識を与えることの恐れも垣間見える。(思い返せば、ノーランは「インセプション」において、アイデアを最大の寄生虫と謳い、知識が物事を変えてしまう過程を丁寧に描いていた)。

また、ノーランが罪悪感や自己嫌悪などの葛藤を抱いた可能性がある事件として、「オーロラ銃乱射事件」がある。

この事件は、アメリカのオーロラにある映画館で起きたもので、ノーランが監督した「ダークナイトライジング」の上映中に、男が銃を乱射し12人の命を奪った悍ましい事件だ。

これは別にノーランのせいではないし、「ダークナイトライジング」が持つ映画的物語性による影響でもないのかもしれない。

でも少なからず、ノーランは思うところはあったはずである。そして今も何かしら思ったり思い返したりしている可能性だってあると思う。

これは、勝手な妄想だが、
映画を作らなければ、こんな悲劇は起こらなかったのか、とか
自分が犯罪者を生み出したのか、とか
じゃあ、道徳的倫理的に正しいもの、世間に合わしたものを作るべきなのか、とか
自分が興味を持ってやってきたことは、間違っているのか、とか
思ったのではなかろうか。

今作はそんなノーランが、自分自身の葛藤やジレンマをオッペンハイマーを通すことで昇華した映画とも言えるんだと思う。またこういう言い方もできるだろう。この映画は、ノーラン然りオッペンハイマーの【世界規模のジレンマを抱いた男の物語】だと。

だがその一方で、ノーランはオッペンハイマーに激しく共感しながらも、感情移入し過ぎないように一定の距離間を置いて、この映画を作ったんだと思う。ただ自分が気持ち良くなるのではなく、できるだけ忠実に真摯にオッペンハイマーの物語を描こうとしたんだと思う。

ノーランの圧倒的俯瞰的視点があるからこそ、この映画はオッペンハイマーの主観映画でありながら、彼の人生を決して美化もしてなければ貶してもない作りになっていると思う。だからこそ見る人によって抱く印象や感想が変わるのだろう。賛否両輪のある作品は、一層鏡写し的な側面があるし、また恣意的な感情誘導が少ない映画とも言えるだろう。

このノーランの極めて理性的な映画の作り方は、なかなかできないと思う。でも、だからこそ彼が唯一無二のクリエイターであり、ここまで評価されるに至ったのかもしれない。


また、ノーランはリアリティ追求型の人間で、極力CGを使わない監督として有名だ。

それでいて、いやだからこそなのか、とんでもない迫力の映像体験ができる映画を数々作っている訳だが、そういう意味でいうと、今作は多少劣るだろう。派手なアクションシーンや目を見張るようなシーンは少ない。映画のほとんどは、おじさんたちの顔のドアップ(それもIMAXカメラで撮る)を中心としたおじさんたちによる会話劇である。そしてそれが3時間もあるわけだが、これが思いの外見れてしまうのが凄いところ。そしてその理由としては、今作で常に流れている音楽があるだろう。

正直、音楽が働き過ぎている、とも言える。個人的に「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」を思い出したが、それは見方を変えれば、音楽を使って執拗に盛り上げていてどこか下品にも思えるものだ。でも正直なところ、おじさんたちの会話劇主体のこの映画においては、音楽の力を借りないと3時間も見てられないのも事実だろう。

また、今作の最大の見どころは、音楽と映像がかつてないほどシンクロするシーンに当たる。

それが、トリニティ実験のシーン、である。

スイッチを押すまでの緊張感を壮大な音楽が駆り立て、あんなにゾクゾクした映画体験は過去最高レベルだった。

ただ、そのゾクゾク感とかスリル感の類は、ある意味で危険であることが、この映画を見終わってからだとわかる。そしてその学びこそ、今作におけるノーランが伝えたいメッセージのようにも感じている。

ここからは、その話をしていきたい。

オッペンハイマーは、世界で初めての原爆実験を成功させた。これがいわゆるトリニティ実験である。しかしその実験の裏には、ある「恐ろしい可能性」が存在していた。

それは何かと言うと、史上初の原爆装置を爆破させれば、大気が発火し、地球全体を破壊するという小さい、本当にごく僅かではあるけれど、計測可能な可能性があるというものだ。映画内では、ニアゼロ(限りなくゼロに近いが、決してゼロではない)という言い方をされていたが、それでも、彼らは計画を前に進めボタンを押したのだ。

地球が破壊する可能性が分かっていたのに、彼らはその方向に突き進んだのだ。

では、その行動が出る心理とは、いったいなんだろうか?

それは、人間が根源的にもつ"欲望"の暴走によるものだと、僕は推察する。

具体的には、
1、知的好奇心及び創作意欲の暴走
2、支配欲の暴走
3、死の欲求の暴走
だ。

1、知的好奇心及び創作意欲の暴走
人類の叡智を集めた壮大な実験は、オッペンハイマーを含めた科学者たちの知的好奇心や創作意欲をさぞかし刺激したことだろう。

見たことがないものを見たい。
誰も作り出したことがないものを作りたい。

そういった欲望に彼らは突き動かされた。

そして止まれなくなった。

また、これは違う話だが、アメリカが日本に原爆投下したのは戦争を終わらすためという見方もできるが、原爆を使うことによってその効果効用を見たかった、という知的好奇心の暴走によるものだったという見方もできると思う。

2、支配欲の暴走
おそらくオッペンハイマーは、いち人間として、ユダヤ人として、ホロコーストを行うナチスを許せなかった。

だから、力を欲した。

ナチスを倒すべく、世界を守べく、原爆開発を急いだ。

しかし、原爆は世界を守ると同時に世界を滅ぼす力を併せ持っていたし、もはやオッペンハイマーはナチス打倒とか平和のためではなく、圧倒的力に魅了されて原爆開発を進めていったようにも思える。

3、死の欲求の暴走
死とは人間の根源的な欲求であり最大の享楽であるため、人は最悪な状況を密かに望みながら危険や対決を求めたりすることがある。だから「恐ろしい可能性」があると分かっていても、その方向に突き進んでしまったわけだ。

最近で言うと、タイタニック号を見学する潜水艇「タイタン」の沈没事故が当てはまるだろう。危険だと分かっていても、人はスリリングな興奮を求めて突き進む。死ぬかもしれないという予感、死に少し触れることによる快感を求めてしまう。

そんな快感から、オッペンハイマーも逃れらなかったのだろう。

原爆は、世界を滅ぼす危険性がある。
でも、そんな最悪な事態を想定しながら、そして密かに望みつつ、オッペンハイマーは危険な実験に取り組んでいたようにも思える。


以上になるが、もし4つ目を挙げるとしたら、承認欲求の暴走があるだろう。

オッペンハイマーは世界初の偉業による地位名声の獲得による承認を少なからず欲していたとは思うからだ。ただ映画におけるキリアン・マーフィ演じるオッペンハイマーにはその要素があまり感じられなかったので、上記には入れなかった。

このようにオッペンハイマーがボタンを押すに至った心に潜む欲望を分解してみると、オッペンハイマーだけでなく我々人間の持つ欲望が理解できて非常に興味深い。

オッペンハイマーは、道徳的懸念は抱きつつ、悲劇的な未来を想像しつつ、己の欲望に呑まれてしまい、止められなかったのだ。

では、何故そうなってしまったのか?

それは、オッペンハイマーの気薄な理性や想像力の欠如、自己の甘さと言うこともできるだろう。

また、尊敬するハイゼンベルクから実験が下手なことを貶されたことによるコンプレックスの暴走や人文系の愛人の死により科学一色に染まってしまったことなど、様々な外的要因もあるだろう。

でも一番は「戦争」という環境因子によるものだと僕は思う。

最悪な未来をわかっていながらも突き進んでいく様は、それを可能としてしまう環境に問題があるのだと。

戦争という魔物が、オッペンハイマーの理性を壊し欲望を刺激した。理性はブレーキで欲望はアクセルだとすると、どんどん突き進んでいくことになるのも頷けるだろう。

その理性と欲望のバランスは一人で取るのも難しいものなのに、多くの人が集まったとき、そして戦争というダイナミズムに呑み込まれてしまったとき、そのバランスを保つのは極めて困難になるのだ。それはアクセル全開、ブレーキ崩壊状態である。そうなると、どんどん間違った方向に向かっているのに止まれないのだ。

そういう意味でいうと、今作は一人の男の栄光と没落を描いた伝記映画であると同時に、戦争による理性の崩壊を描いた反戦映画であるようにも思える。

ーどうして原爆を作ったのか?

それを自分事のように分からせに来るような映画でした。

また、我々は世界で唯一の被曝国の住人であり、原発事故による問題も未だに抱えている身として、この映画は見るべき類の作品なんだと思う。





ここからは、ネタバレありです。





また、この映画は、オッペンハイマーの物語ではあるんだが、同時にルイス・ストローズの物語であり、映画は2視点で展開されていく。

オッペンハイマーの物語はカラーで展開される。出だしに「核分裂」と文字が表示されるのは、原爆が核分裂することでエネルギーを生むから。科学、探究軸。北部出身。勉強せずとも頭が良い。高等教育を受ける。左がかった思想。リベラル派。

ストローズの物語はモノクロで展開される。出だしに「核融合」と文字が表示されるのは、水素爆弾が核融合することでエネルギーを生むから。世俗、政治軸。南部出身。宗教において敬虔。高卒。保守的で強固な反共産主義者。


また、映画の構成としては、
前半は、原爆をいかにして完成させるか。原爆実験に至るまでの行動過程。戦争による高揚感。
後半は、原爆を生み出したことへの葛藤。オッペンハイマーの心理過程。戦争による罪悪感。

前半と後半の分岐点は、トリニティ実験、である。

面白いのは、後半部分で、原爆実験過程におけるオッペンハイマーの心理に迫っていくところ。

聴聞会にて、オッペンハイマーの心理が追求されるのだ。オッペンハイマーは、どういう心持ちで原爆を開発していたのか。開発を進めながらも躊躇いはあったのか。その欲望と理性のジレンマ。己の知的好奇心や道徳心と向き合うことになるのだ。

オッペンハイマーがどんどん丸裸にされていく様は、痛快とか同情とかではなく、ただただオッペンハイマーの心を把握しようと夢中だった。でも、なかなか釈然としないオッペンハイマーの心。それは、彼がそこまで考えていなかったということなのか。それともただ罪から逃げたいだけなのか。キリアン・マーフィのどアップの顔を見つめながら、僕は彼の感情や思惑を読みろうと試みる。そして次第に気づく。彼の心に迫ろうとすればするほど、それは同時に、自分の心にも迫っていることに・・・。

上質なヒューマンミステリー映画でもありました。

また前半であんなに輝いていたキリアン・マーフィが、後半になると一気にげっそりするのも、印象的。欲望のまま突き進んだ人間の末路が、あの姿に現れているのだろう。


ラストに関して言えば、今まで見てきた映画の中でもトップクラスに好きなラストだった。オッペンハイマーとアインシュタインのマジで痺れる会話。そしてノーランはこれがやりたかったんだな、納得した。

ノーランの映画は、最後の最後でアッと言わせてくるものが非常に多い。「メメント」「ダークナイト」「インセプション」「テネット」なども、どれも唸るようなラストだった。でも今作は伝記映画だからと思い気を抜いていた。そしたら、見事にやられた。個人的に「インセプション」を超えるラストだった。

ラストには、大きく二つのオチが用意してあった。

一つは、オッペンハイマーとアインシュタインは、ストローズの思考範疇を超える話をしていたというオチ。

ストローズは検討はずれもいいところで、彼は勝手に嫉妬して被害妄想を抱いてしまっていた。

また、オッペンハイマーとアインシュタインの会話は、未来を予見するような天才同士の会話であり、ストローズのような人間には立ち入れないものだった。

もう一つは、オッペンハイマーは最初から、マンハッタン計画以前から、悲惨な未来が待ち受けていることを知っていた、というオチ。

オッペンハイマーには先見の明があった。

でも原爆を作ったのだ。

彼は欲望を止められなかった。

人間の持つ可能性が見たかった。
自分の手で圧倒的な力を生み出したかった。
そしてそれをこの目で見たかったのだ。

最後のキリアン・マーフィの眼力と顔圧の迫力に震える。あの目が、顔が、忘れられない。

僕たちは彼の瞳の奥に何を見るのか?

僕には、
彼の瞳は青々しく輝き至極興奮しているように見えた。恐怖に包まれると同時に、溢れんばかりの欲望に包まれていくように見えた。

恐怖で心を震わすと同時にその恐ろしい世界を自分が招くことに興奮しているかのような。地球を滅ぼす力を手にする自分に高揚感を覚えているような。そしてそうなってしまう自分や世界に絶望してしまうような。

でも、オッペンハイマーが何を思っていたのかは、何を考えていたのかは、それはつまるところ、オッペンハイマー本人にしか分からないことだ。

僕らは、あくまで彼の瞳の奥に映る「真実」しか語ることはできない。どれだけ読み取ろうと努力しても「事実」には辿り着くことはできない。ましてや人の心理なんてものは到底不可能である。

でもそれでも「真実」を追求したい。

ーオッペンハイマーの瞳に何を見るか?

それを色んな人と語りたいのである。





<想像力の欠如>
実際のところ、オッペンハイマーの想像力は並外れたものがあったはずであり、広島や長崎の惨状など容易にイメージできたはずである。

では、なぜ原爆投下を中止しなかったのか?

それは先ほどからずっと話しているように、欲望の暴走化、理性の欠如、戦争というダイナミズムによるもの、などの要因が挙げられるが、ここでもう一つ加えたい。

それは、想像力の悪用である。

ここでいう悪用は、想像した上で「どうでもいい」とそのイメージを放棄することを指す。そして残念ながら、そんな奴がこの世には一定数いる。

未来や人類、地球のことなどどうでもよく自分の地位名誉金のことをしか考えていないような奴、自分の安全安心自由が確保できればよくて相手側のことなどどうでもいいと切り捨てるような奴、自分の欲望の実現のみを重視し相手の立場に立たないような奴、、、書いていても実に胸糞だが、そんな奴にならないように注意したいところだ。

なぜなら、そんな奴ばかりになってしまうと、それこそ世界は終末に向かってしまうからだ。

第三次世界大戦を起こさないためにも、人類は今こそ理性を働かせてその「姿勢」を示す必要があるのかもしれない。


<役者陣>
「この映画をみて、今日の世界で起きていることの中に同じようなことを見つけ、それを考え、警戒の目で見ることができるようになる」
ーキリアン・マーフィ

オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィは今まで脇役でしか見たことがなかったが、今作でついに一躍スターになった印象。

ストローズを演じたロバート・ダウニー・ジュニアは、好きでも嫌いでもない俳優さんだが、後半でオッペンハイマーに対する感情を露わにしていく演技は素晴らしかった。


<悲劇の要因>
現実から目を逸らした結果
理性の欠如の結果
想像力の欠如
戦争という恐ろしいダイナミズムが招く欲望の暴走
知的好奇心の暴走
神に近づこうとした男の末路
一線を超えた結果


<どんでん返し>
知的探求の果てに一線を越える地球滅亡装置を設計してしまった
→最初から地球滅亡装置であることは知っていた!


<アインシュタインとオッペンハイマー>
アインシュタインは、神の畏敬から引き返した。
一方で、オッペンハイマーは突き進んだ。


<毒りんご>
防げた原爆のメタファー
プリオ

プリオ