APlaceInTheSun

イニシェリン島の精霊のAPlaceInTheSunのレビュー・感想・評価

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
4.8
※今回はいつにも増して、自分への備忘録としてどこが面白かったかを、鑑賞後の興奮のまま取り留めもなく記す※

「やっぱりどこに連れてかれるか分からないストーリーは面白い!」と前作『スリー・ビルボード』鑑賞時と同じ高揚感を得た。
「宇宙を舞台にしたSF大作」とか「タイムスリップした少年の大冒険」とかなんでも良いんですけど大きくて面白そうな設定から物語を作って、観客を惹きつけるのは、ある程度の力がある作り手なら出来るはずなんだけど、
本作「イニシェリン島の精霊」みたいに、こんなにも卑近で些細な(作中でバリー・コーガン演じるドミニクが言う「12歳かよ!」な)オッサン同士の諍いを、寓意や暗喩を張り巡らせて、観客の予想より斜め上をいくストーリーを用意して、こんなに奇妙で残酷で吸引力のある寓話を作るとは。やっぱりマーティンマクドナー凄い!!休みとって公開初日に観た甲斐が有った。

ここ5年くらい映画を良く見るようになり、加えて映画について書かれた物を読んだりする事も増えた。ついついストーリーだけを重視してしまうが、それは映画の見方としては初級だという考え方が有るのは理解している。編集、カメラワーク、照明、撮影、ロケーション・セット・美術、俳優の演技含めた演出などストーリー以外の要素を含めて総合的に評価されるものだ。それでも本作を鑑賞している最中に
「やっぱりどこに連れてかれるか分からないストーリーは面白い!!」と前作『スリー・ビルボード』鑑賞時と同じ高揚感を得た(思い起こすとストーリー以外の要素も唸るほど素晴らしかったのだが)。
予想できない展開が織りなすストーリーなんだけど、荒唐無稽なお話しではなく、観客が予想する反応の少し上の過剰さを登場人物が行っていくという感じなので興醒めすることはない。
それどころか、登場人物の微細な変化を追って行くだけで惹き込まれた。マーティンマクドナー監督お得意のブラックユーモアも絶妙な味付けになっている。乾いたユーモアと乾いた残酷描写。(監督は北野武のファンだと公言してるらしいがその影響も感じる)。

登場人物が少なく、狭いコミュニティ内で起きる寓話(もはや神話的とも言える)で戯曲のような作品だなぁと鑑賞中考えていたが、元々舞台用に書かれた脚本らしい。じゃあ映画的に良くないのかというと違っていて、絵作りが素晴らしい。美しいが何処か陰鬱とした情景。ロケーションがまず抜群。
高い木々や建築物が無いので遠くまで見渡せるアイルランドの離島、広い大地。
この点は人口200人程度の狭い町の中でお互いの顔は見知っていて、隠し事できない間柄、という設定・主題からの必然でもある。またパードリックが立つ断崖絶壁の風景画は、彼が突きつけられた人生についての熟慮や課題の厳しさとも結びつく。とにかくロケーションと撮影画素晴らしい。
画の強度といえば、前作『スリー・ビルボード』ではマクドナーは冒頭にロードサイドに「3つの看板」というとても印象的なショットがを登場させる。その看板がストーリーを引っ張り、主題にも関わってくるという巧みな作劇を見せていた。
本作で印象的だったのは、コルムが自ら切断する指(!!)。しっかり切断された指を見せるだけでなく(ちゃんとグロい)、コルムの血まみれの手の切断面もしっかり観客に提示する。
この指が、二人の憎しみを増幅させる装置になるのも興味深いしスリー・ビルボードにおける3つの看板に近しい装置でもある。
…しかし何だよ!指を切るって!!「お前とはもう絶交な。話しかけたら俺の指を切るからな」って…。ほんで、ホンマに指切るって何なの?頭おかしいの?っていうのが全て褒め言葉。今作の面白さでもある。
絵の強度といえば、あのパトリック夫人。魔女か死神かと勘違いしてしまいそうな不気味なオーラを纏ってましたが、彼女こそがBANSHEEなんですね。
何か良からぬ事が起こるのを予言したり、その場に必ず居合わせたり。この島を俯瞰で見守っているような感じ。
・シボーンが思い悩んで池の淵に立っていると、遠く対岸の方からゆっくりと手を振るパトリック夫人!
・シボーンが島を離れるため、船出する。断崖絶壁から妹の出発を見送るパードリック。ん?何か奥に黒い人影が… ん?あれは間違いなくパトリック夫人!
のようなショットの不穏さと美しさにやられた!!
とにかくあの感じの不気味なお婆さんが登場する作品が好きだ。






寓話とリアリティラインについて、
その指を切るという設定もそうだし、切断したあとのコルムの手をしっかり写した絵を観て、これは寓話なんだと判断した。2回目の切断は一気に4本の指を切断したはず。普通は止血処置をしなければ、出血性ショックで瀕死になるはず。だけど出血はするもののそこまで大怪我にはならない。
もう一点、1回目に切断された指を家の扉に投げつけられたパードリックは、何を思ったかコルムの指を靴の箱にとっておく(笑) 妹のシボーンに突っ込まれると「ゴミがついたらいけないから箱に入れる」とか訳の分からない事を宣う。これには笑ったし、寓話なんだと判断した大きな要因。
寓話というか御伽話しみたいなもんで、そういう昔話って大概、人間の愚かさをあぶり出す意義があるんですよね。本作はそこまで教条的ではないのが良いんだけど。
上記2点あたりで作りてはリアリティライン設定してる。「だいたいこの感じの寓話だよ」っていう。


作品の中で度々、対岸で砲弾の音が鳴りアイルランドで内戦が起きていル事が仄めかされるが、明らかにこのオッサン二人との対比がなされてると思う。
パードリックが砲弾の音を聞き、まさに対岸の家事とばかりに「何のための戦争だかしらないが」に呟く。お前ら二人の争いも周囲の人からしたら「何の為の誰得な争いなんだ??」なのがまた皮肉で面白い。
最初は些細な事から始まり、段々と双方の敵意が膨らみ、最後にはもう第三者の入り込む予知が無いほど後戻りが出来ない所にいってしまうのも、国家間の紛争で有る事だし、

コルムが切断した指をパードリックの家に投げつけ、不運にもそれを食べたロバのジェニー君が死んでしまうシーンなんて、典型というか。
威嚇や挑発をしていた方が意図していなかった程、不運な事で相手方に予想外の被害を生んで、相手方の敵意が燃え上がるって歴史上、人々が経験してきた事だと思います。
国家間の紛争や戦争だけではなく、パードリックとコルムの友情の終焉は恋愛のそれとも置き換える事も出来ると思います。
最初は拒絶され戸惑うだけのパードリックが、止せば良いのに必要以上に相手に執着したり、他人のアドバイスで強硬策に出たりするのは、恋愛でも良く有る事ですし(ストーカー行為から加害行為に発展して、、ってやはり本作はホラー作品でもある)。


対岸のアイルランドで繰り広げられてるのはアイルランド内戦。
元々はイングランド(イギリス連合王国)とアイルランドの独立戦争だったのが、アイルランドの内部でも独立派と反対派の内戦に発展。
他国間の戦争より内戦の方が死傷者数が多くなるという何とも皮肉な事は往々にしてあるそう。
元々は身内同士だった者がひと度争いを始めると普通の紛争より悲惨な結果を生むというのも、本作と重ね合わせる事ができる。

パードリックとコルムが敵意を増幅させて報復合戦の様相を呈しだすところから西部劇のようにも見えて来て溜まらない。酒場でケンカするシーンとか。
パードリックがコルムの家に乗り込み、窓からコルムを覗き込む場面のゾクゾク感。多用される窓を使ったショットがとても印象的。


コルムがパードリックに突きつけた人生における選択肢も極めて興味深い。「お前の話はつまらん!」お前は確かに「いい奴」だが、長いだけでつまらん話に時間を割く程、人生には時間画ない。ここからは俺は創作や思索に励むから話しかけんな!
・コルムは言う。モーツァルトは「いい奴」ではなかったが200年後にも残る作品を作り人々に記憶されている。
・パードリックが返す刀でモールなんか知らないよ。俺の母ちゃんはいい人だったから俺は記憶してるし、それでいいじゃん。
…以外とこの主題って最近の映画作品で語られてなかったような気がする(デイミアン・チャゼルの「セッション」は途中までこれと近い事を畫いていた気がする)。
俺はこの世界に何かを残せたか。後世に名を残す一角の人物になりたいし、作品を残したい。人生も折り返し地点を過ぎたコルムがこういう事を考えるのは理解できる。
パードリックは「いい人」だと自認していたが「退屈な男」だとは自覚していなかった。

パードリック「俺は退屈な男なのか?」
シボーン「でも兄さんは良い人よ」
が笑った。回答になってないし。周囲の人に確認しても誰も「退屈な男」というのは否定してくれない。笑
コリン・ファレル演じるパードリックの顔が、可愛がっているロバのジェニーにそっくりなのは偶然だろうか。愛嬌はたっぷりだが愚鈍な者の象徴としてのロバとパードリックの顔が。ここにも皮肉なユーモアを感じる。

◆◆◆◆◆◆◆◆
鑑賞後も数日間、この映画について考えていたが、この映画についてやや腑に落ちない部分として、
①突然コルムがパードリックを拒絶した事が突然過ぎるし、極端すぎる。
②拒絶されたパードリックがコルムに対する執着が異常過ぎる

この2点について考えると本作がとても刹那いクイア映画だという考えが浮かび上がる。つまり、
まだまだゲイやレズビアンがタブーだった1923年。アイルランドはプロテスタントが根強く残る国。同じキリスト教でもイングランドで興ったプロテスタントよりもずっと同性愛に対する戒律が厳しかった。
ましてや孤島の小さな村の閉鎖的で狭いコミュニティ、同性愛の噂が立てばたちまち村中に広まり、居場所を失うに違いない。

こんな仮説はどうだろうか。
コルムとパードリックは、村人の目をかいくぐって愛を育んでいたのかもしれない。村人やパブの常連からは、異常に仲が良い友達として認識されていた。しかし余りにもずっと一緒に居る二人を訝しむ者も出てくる。噂は村中に広がり、教会の神父の耳にも入ってくる。警察官や権力者、有力者にも。
これ以上はもう危ないと感じたコルムは、何日も何日も悩んだ挙げ句、パードリックに突然の絶好宣言をする……。

作中、コルムが教会で懺悔をしている最中に神父から「同性を愛した事はあるか?」と聞かれ過剰に否定する場面がある(記憶が曖昧になってきたけど、確かそんなシーン有りましたよね??)
この反応の真意を考えてみると強ち的外れな見立てではないだろう。
パードリックの異常なコルムに対する執着は、前述したとおり、友情というより恋愛の破綻の末のそれと見た方がしっくり来るとは言えないだろうか??

鉄の意志として、指を切って拒絶するコルムに対して、
もう受け入れてはくれないと踏んだパードリックがコルムの家に火を付けると宣言する。
コルムの家が彼の硬い意志とするならば、彼は硬い殻に閉じ籠もって揺るがない。その殻ごと焼き尽くそうとするパードリック。愛の執念の炎が燃え上がる印象的な(スリー・ビルボードの火災シーンほど派手ではないが)シーン。

そうなってくると、聡明で容姿端麗なシボーンがこの島で結婚をしなかったのは何故だろうか、という問いに思いを馳せてしまう。
ある人が、彼女はレズビアンだった可能性があると書いていた。その仮説を繋げてみると、シボーンは兄パードリックとコルムの同性愛が終わりを迎えた事を目の当たりにする(シボーンが二人の事を知っていた描写は無かったと思うので完全な想像)。
食料品店の世話焼き伯母さんや不道徳な警察官からは「行き遅れ」の女だとみなされる。言い寄ってくる男はドミニクみたいな奴ばかり。
(ドミニクは愛すべき馬鹿小僧だった!((泣))彼の最後も切なすぎる(泣))
島外に働き口を得たシボーンは、イニシェリン島に見切りを付け出ていく。もしかしたら愛する人と巡り合う事を期待して……。
ここまで来たらちょっと行き過ぎた考察と言われてしまうかもしれないが、マーティンマクドナー監督は、一度だけ本作を「恋愛映画だ」言ったとか。

◆◆◆◆◆◆◆◆

この様に如何様にも読み解きができる懐の深い物語だ。
何度も見返したい。
APlaceInTheSun

APlaceInTheSun