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アンデス、ふたりぼっちのLCのレビュー・感想・評価

アンデス、ふたりぼっち(2017年製作の映画)
3.8
とても面白かった。

ペルーの作品だが、作中でスペイン語は話されない。
登場人物たちが話すのは Aymara (アイマラ)と呼ばれる民族の言葉、アイマラ語だ。
*スペイン語での公式表記は「 Aimara 」だが、アイマラ語は本来母音が2つ続くことはないという専門家の意見から、「 Aymara 」の方が本来の表記に近いと言われているみたい。BBCの記事でも注釈を入れた上で Aymara 表記を採用していた。

作中「息子はアイマラ語を話したがらない、恥ずかしいと言う」みたいなことを言う場面がある。
あるBBCの記事にも載っていたが、アイマラ語を第一言語として話す人程「アイマラ語話せる?」と訊かれると否定するらしい。
それは、アイマラ語を話す人たちがペルーやチリやボリビアといった社会の中で冷遇されていることに関係がある。
Aymara であると知られるのは、相手に「下層の者」として認識される。だから、恥ずかしい。
そしてこの言語に関して UNESCO は「話者の総数は多いけれど、存続に関しては非常に危うい言語」だという見解を述べているようだ。
そう考えると、本作はアイマラ語のみで撮られた作品として、かなりの価値があるのかもしれない。

たくさんの通訳者とか研究家とかが苦労しているのは、「文字で残す作業」であるらしい。
Aymaras はたくさんの知恵や物語を、文字に残さず語り継いできたらしい。そしてそれらは、家族やコミュニティの中でのみ語られるもので、公に話されるものではないようだ。その為、文字に残す作業はかなり大変らしい。
思い返してみれば、村に買い物に行くおじいさん、メモはとらずに繰り返し発声することで、何を買うか忘れないようにしていたね。紙とペンが存在しないのが彼らの日常なんだろう。
そんな日常を、本作は映像で残す役割も担っているんだね。

夢の内容で一喜一憂するおばあさんが可愛い。
息子が帰ってこない、帰ってくるという話を繰り返しするけれども、これも実際よく見られる光景であるらしい。
若人は街へ出て行ってしまって、もう戻ってこない。「そんなふうに言語も、残されて老いて朽ちていく者たちと共に朽ちていくんだと思う」ということを、アイマラ語話者自身が言ったりする。
標高5000m (もしかして、富士山より高い?)の景色の中で、リャマや犬や羊たちと暮らす生活。
火を起こして部屋の明かりを確保する生活。
雨漏りしたら自分たちで藁を屋根に敷き詰める。
動物たちの鳴き声とか雨風の音、そしてお互いの話しかけ合う声とかはするけど、テレビの音もラジオの音もゲーム音もない生活。
若人にとっては、確かに街の方が魅力的なんだろうな。娯楽めっちゃある!買い物すぐ済んで楽!電気!
そして、その生活のひとつひとつが失われていく過程が心細い。

寄り添って生きている2人。
私たちの美しい羊たち、と泣く。
怖がらないでと後ろ手にナイフを持って、泣く。
ひとつひとつが失われていったら、残された者はどうすればいいんだろう。
その背中は、どこへ消えていくんだろう。
助けてと叫んでも、雄大な自然に溶け込むだけの、そんな環境。
そんな環境で、2人が寄り添い合ってる。
神さまは私たちを見捨てたから泣いてるの?と問う場面があるけれど、本当にそうかもしれないね。神さまは助けられなかった無力を噛み締めながら、それでも見守り続けているのかもしれない。

Nax jiwäwa. Akat qhiparux waranq waranqanakaw kutt'anïxa.
私は死んでしまうだろう。でも明日はきっと何百万(もの存在となった私の命)が帰ってくるよ。
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