ジェーン・バーキンが常にひたすら格好良くて最高、特に衣装
曜日を示すテロップが出される度に時間の流れの異常さに毎回驚く、3時間はどう考えても長い
シリーズ最終作ゆえの集大成的作劇には感慨深さだけではなく多少の辟易も入り混じるが、母親の遺影オーバーラップ(ラストの写真の目元クロースアップとも共振する)にはやられる、最もエモーショナルな事件はドワネ>>続きを読む
起きている事象において常に強調されるのは距離的な差異ではなく、時間的な差異である(1945年の社会がすでに、現代の「時差」が存在しないとも言える状況にあったとしたら、原爆の投下に関わる事態は同様に進展>>続きを読む
マヌエル・ノイアー以降そのポジションに求められる役割は激変したが、自チームが敵陣深くまで攻め込んでいる時のゴールキーパーというのは確かに出来過ぎなくらいヴェンダース映画を象徴している
シュミットの映画において過去、記憶の想起と密接に関わるのは常に聴覚への刺激であり(「ヘカテ」のラストの音楽、「デジャヴュ」のレコーダーや鈴…)、サミー・フレイが過去の自分から手渡されるものもまた同様で>>続きを読む
虫に乗る試験、鍛錬の様子が描かれないので成功によるカタルシスが足りないと思ったが、事象のほとんどは原因や過程があまり描かれずに結果が提示され続けるという意味では一貫している、それもあってかあまり長さを>>続きを読む
映画の編集点について「民主主義は無用だ」と話すストローブ、その実践の様子が撮られるこのペドロ・コスタによる映画がまさにその教義のもとにある、「シチリア!」編集画面から切り替わって初めてユイレの横顔が映>>続きを読む
オープニングクレジットが出た瞬間からすでに、時間の折り目がくっきりと見える、その折り目に向かって投げ込まれた鈴と(大量の)梱包材
「それがいつか起きるのも、すでに起きたのも、起きつつあるのも同時である>>続きを読む
「アメリカ」制作中のメイキング映像と続けて観たが、二人の関係性が結構違って見える、そちらでは助監督的な立ち回りをしているようにも見えたユイレだったが勿論そんなことはなく、序盤で「抵抗」が引かれて「二人>>続きを読む
俳優だけが演じることができる、とは残酷でもあるが誠実な姿勢でもある、プロフェッショナルな俳優としてのサッシャ・ギトリの格好良さに満ちている
座席の変更、死体の隠し場所、脱線後も継続する密室、照明と透視…などなど書ききれないくらいの様々な要素が、ワンツーでDFラインを崩していくかのように複層的に作用していくのが堪らない、おまけに雇用契約の解>>続きを読む
無理に喩えるなら「羅生門」スタイルの三幕がカットごとに切り替わる映画を見ているようであり、まるでカメラの位置や動きが脚本上で指示されているような気持ちの悪さを覚える
その方法自体が悪いというより、「真>>続きを読む
100分以内には収めて欲しいが、時折挿し込まれる、置いてはならない場所にカメラを置いているような、禁忌を犯しているような感覚を覚えるショットがテーマと呼応しているようで良い
現実⇔創作という大枠から人物のアクションにまで通底する相互通行性、行為に先立ってそれが言葉で示される(フィクションにおける「演出」の機能)という原則も徹底され、平手打ち⇔キスの歪んだ相互通行へと至る
徹底された屋外の不在、時間の絶望的な重たさを一蹴するかのようにモノローグの途中で唐突に差し込まれる、夕張の雪道を捉えたスー・チー不在の二度目のオープニング・ショット
マーロン・ブランドのシーンとジャン=ピエール・レオーのシーンで明らかにノリが違うというかレオーがベルトルッチ映画のノリからずっと逸脱している、だから彼は自分で映画を撮っている
72年なので本当に一番良>>続きを読む
松村北斗が漕ぐ自転車の軽やかさ、上白石萌音に降り注ぐ輝く雨、生きろとは言わん、死なんでくれ
長いし、「エル・スール」の付け入る隙のない完璧な語り口と比べると緩慢さも否めないが、最後の「座席の指定」からは、もう、、、
暗闇に身を沈めて目と耳を研ぎ澄ませる必要性を欠いた画面の連続に耐える体感約3時間、ハンナ・シグラの起用によって目配せされている傑作の足元にも及ばない
ドヌーヴの顔面の「硬さ」、泥を投げつける甲斐があるとでも言うべき壁のごとき硬さが誰にどのような形で受け継がれるか
聞かれていることが想定外である言葉という映画的な仕掛けはネガティブな形で繰り返されるが、それが思い切り反転するクライマックスの感動
娘が素晴らしすぎるし、尺八の音色に泣く