このレビューはネタバレを含みます
ロボットアニメとしてのクオリティが◎。ロボットとワイヤーアクションの組み合わせは思いつかない。
第二次大戦・太平洋戦争を脚色する仕方に知的好奇心が駆り立てられる。日本人にフレイヤを打たせる筋も面白い。
最初はサルトルカミュ論争の様相を呈するが、最終的には「不確定だが希望ある未来(=“明日”)」の価値についての対立を描く点も、何ともセカイ系的で良い。
セカイ系が政治ドラマに接続することで地に足をつけている。政治との接続がep.19での騎士団との決裂をもたらす。そしてこの決裂ゆえにルルーシュの闘いが本来はナナリーのためであることが強調される。
しかし、ナナリーのための戦いのなかでナナリーが命を落とす。これはルルーシュによる自己反駁。自己反駁と騎士団との決裂が、ナナリーのために闘うという目的をさらに純化する。(ナナリーの本質存在のために闘う)
ところが、最終的にナナリーと敵対することによってルルーシュの自己反駁は完成する。(ナナリーのためにナナリーと闘う)
ナナリーの目的は“兄ルルーシュとともに生きること”。それに対してルルーシュが“ナナリーのために”という名目で目的としていたのは、“(ナナリーのために)支配や戦争の無い世界を創ること”。
それまでの純粋な目的であったナナリーとの対立の結果、“(ナナリーとは無関係にただ)支配や戦争の無い世界を創ること”という目的だけが切り取られる。ここには「消えていったあまたの命のために」闘うという新たな動機が顔を見せる。
支配の無い世界を創るためにギアスを使うのは矛盾ではないか、というシュナイゼルの問題提起に対して明示的な回答がなされていなかった。この点に関して2点。
①支配があるからこそ意志が輝くのではないか。
サルトルが指摘したとおり、自由にならないものがあるからこそ自由は機能する、という視点が本作には欠けているように思う。
②シュナイゼルvs.ルルーシュの対立は何を表すのか。
(支配vs.反支配説)
シュナイゼルはダモクレスによる半永久的な支配を肯定し、ルルーシュはそのような存在を否定する。
→支配vs.反支配説を採用するには、帰結主義を前提にしなければならない。なぜなら、ルルーシュは支配無き世界を創るにあたって支配を実践していたから。結果が手段を肯定するような構造がなければ、ルルーシュのギアス行使も肯定されえない。ゆえにルルーシュは帰結主義的反支配主義である。
(功利主義説vs.善意志説)
シュナイゼルはダモクレスによって世界が安定的な構造を手に入れることを肯定し、ルルーシュは人の“意志”という不確定性を肯定する。
最終盤での2人の対話に重きを置けば、この説が有力。
ただし、ここでも帰結主義が前提になければならない。なぜなら、まさにシュナイゼルが言い当てたように、ルルーシュはギアスによって人の“意志”を否定していたから。ゆえにルルーシュは帰結主義的善意志説と見ることことができる。
……というように、シュナイゼルとルルーシュの対立を合理的に理解しようとすると以上のようになるわけだが、“帰結主義”という言葉は“矛盾”を回避するためのお飾りに過ぎないとも言える。
そこでむしろ私はこの矛盾を積極的に擁護したい。つまり、支配によって支配に抗うにしろ、意志を否定することによって意志を肯定するにしろ、どちらにせよルルーシュはこの自己矛盾に気づいており(いつから?)、それに対する彼なりの応答が「ゼロレクイエム」だったのではないか。言うまでもなく「ゼロレクイエム」とはゼロによるゼロの自己反駁であり、“自殺”である。(その意味で“レクイエム”という語は言いえて妙。彼は自分で自分の魂に安らぎを与えようとしたのである。)すなわち、ルルーシュは己の生み出した矛盾を矛盾によって破壊するしかなかったのである。そこには矛盾以外の何もない。
こう見ると、『コードギアス』とは、矛盾を貫き、またそうすることでしか生きられぬ人間存在の本質を照らす作品のように思えてくる。
S1で挫けずにここまで観て良かった。