喜連川風連

妄想代理人の喜連川風連のレビュー・感想・評価

妄想代理人(2004年製作のアニメ)
4.9
今敏さんの見ていなかった作品をついに見てしまった。。。

妄想代理人、人間の見えない欲求とその具現化を描いたパプリカの前段になるような話だった。最後半はファンタジーに振れるので、好みが分かれるところ。。

ゼロ年代初頭の空気感を反映するように、言葉の乱れる若者や死んだ顔をして通勤する大人が描かれる。

誰もが思い通りにならない苦しみの中で、自死(自暴)による救済を求める。それを「その場限りの安らぎ」だと断じ、ディズニーやアイドルに逃避する心理と同じだと言い切るのがこのアニメの真骨頂。

「その場限りの安らぎ」として消費されるのはアニメや映画も一緒である。

その視点はどの年代に対しても平等に向けられる。親父世代は、美化された昭和という過去を懐古する。だが、それは虚構だ。居場所ではない。

理想化されたユートピアとして貧乏だった昭和が描かれるのも当時流行った表現だ。(オトナ帝国、3丁目の夕陽)

第8話の「明るい家族計画」が白眉。
ネットで集まった人たちが自殺を試みるが、変な友情が芽生えてしまい、自殺するのがバカバカしくなる。しかし彼らは、第三者に認知されない。さらに、よく見ると影が描かれていない。周りはカラスがずっと飛んでいる。そのため彼らは練炭で既に死に、幽霊の可能性が高い。

噂が噂を呼んで、異形の形になっていく、少年バットはさながら、江戸時代の怪談話のようだった。

あれほどまでに汚い人間たちがエンドロールの睡眠シーンでは無垢な存在として描かれる。現代の複雑な人間模様から解放されると人間はこうまで穏やかになるのかと気づかされる。

場面転換や随所にマッチカットや時間を横断するカットが使われており、今敏節が炸裂しててたまらない。

全てを破壊された後に、刑事の猪狩はこう呟く。「まるで戦後じゃねえか」

「更地にして戦後からやり直そう」そういうテーマのアニメをたまたま見た直後だったが、ゼロ年代確かに覆っていた空気の一つだったのかもしれない。

だが2年後には元の東京に戻って、第1話と全く同じ構図が繰り返される。

あぁ、なるほど。

これはアニメという「その場限りの安らぎ」を見て「あ〜面白かった」と現実に帰る我々そのものを描いていたのか。

それをメタ認知させ、あなたはどう生きますか?と問いかける。

物事を他責にした先に待つのは緩やかな死だ。
喜連川風連

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