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新世紀エヴァンゲリオンのDのレビュー・感想・評価

新世紀エヴァンゲリオン(1995年製作のアニメ)
4.2
シンジくんという(非)存在の、あらゆる皮が剥けていく物語だと思う。
エヴァンゲリオンというのは心で、3人はそれと繋がることでしか世界に存在できない非存在だと思う。
僕にとってのエヴァンゲリオンは、両親の(というか、母の二度の)離婚や、貧しい家庭で育った事実によって感じさせられた疎外感と、それによる劣等感への理解と肯定から始まった。周りの、お父さんもお母さんもいる友達を見てると、羨ましかったなあ。習い事や部活で運動してた時も、みんなお父さんとお母さんが試合を見にきてた。あるいはお母さんしか来てなくても、お父さんの存在が会話から伝わってきた。僕とは違う世界に生きてるんだなあと思った。
高校進学の前、部活を引退した時も自分の非存在性を錯覚した。今まで部活ばっかりやってきたもんだから、進学先の高校も決めてないし、別に勉強もできなかった。というかあまりその手の努力を知らなかった。そのくせ人よりなくもがなの感受性は豊かだったから、どうにかしないとと焦った。それと同時に、うちは貧乏だったから、長男の自分がお金を稼いで支えないと、なんて中3ながら思った。そのためにはいい高校に行かなきゃ。でも、みんな塾に行き始めるけど、どうしよう。うちにはそんなお金がない。ということで夏休み頑張って自分なりにがむしゃらにやってみたら、案外勉強は簡単だった。

成績は伸び続けて、部活の1つ上の憧れの先輩(キャプテン)が行った進学校に進学できた。
正直入試結果も上の方だったし、さすがに劣等感は感じないだろうと思ってたけど、でもここでも非存在を感じた。やっぱ進学校に行く奴らの親御さんはお金持ちが多い。Z会とか東進とか河合塾とか駿台とか、高一から大金かけて塾に行ってるのよ。社長の子とか医者の子とか教師の子が多かったなあ。もちろん父も母もいる。やっぱこの群にも僕は存在してないんだなとか思った。
この頃くらいに、エヴァンゲリオンを観た。あんまり理解できないところもあったんだけど、妙に自分の非存在をシンジに重ねていた。それでエヴァンゲリオンというアニメをすごく好きになった。けれどもそんなことはすぐ忘れて大学に進学した。

大学でも非存在を感じた。高校の頃なんかより比べ物にならんくらい金持ちが多い。金持ちは私立だけだと思ってたけど、流石にいいところに行くと国立も金持ちばっかり。大学生の一人暮らしで、しかも東京でもないのに7〜8万の家賃を払ってる親御さんとか、どうなってんの。

とか、そういうことを考え続けて、非存在感を味わい続ける人生を辿ってきた僕だけど、大学院の修士2年になったときに久々にまたエヴァンゲリオンを観た。
高校生の頃よりはるかに共感した。誰かに認められたいという気持ちなのか、あるいはただめちゃくちゃ負けず嫌いなのかはわからないけれど(多分後者)、自分のそういう側面は、非存在を感じ続けてきたことが原因なんだなと、エヴァを観て思った。僕は僕の知識をエヴァンゲリオンのように使ってる。そしてそれを通して他者と接することが多い。でも知識は心じゃない。ATフィールドという壁が知識にはないから、なんというか、そのような会話においては、僕は、僕が僕として話してる感じがしない。世界の側にある事実の一つに過ぎない何かになっている感じがする。そんな自分の非存在を、大人になってから回顧してる気持ちになれた。

そんなわけで、今度は知識を通して非存在を感じるようになった大学までの僕だが、いつしか、知識が身体に染み込んで、心に浸透した気がする。いや、完全にそうなったわけではもちろんないが。
これは哲学を勉強しているのが大きいのかな、なんて思ったりする。というか、学問に対する姿勢の背景に哲学的思想を持つようになったのが大きいのだろうな。
だから僕はこうして自分の心というATフィールドを通して見た景色を他者に語ることが好きだ。
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