無影

仮面ライダー響鬼の無影のレビュー・感想・評価

仮面ライダー響鬼(2005年製作のドラマ)
4.0
子どもの頃に見ていたライダーで、唯一大人になってから見返していなかった作品。YouTubeでの無料配信を機にようやく見出しましたが、めちゃくちゃ面白くて、途中からTTFCに入って一気見しちゃいました。
①前期後期論争
本作を見通して気付くのは、やはり前期(~29話)と後期(30話~)の作風の違いです。長い特撮史の中でも有数の出来事として知られる制作陣の交代劇ですが、それを知らなくても、京介が出てきてから明らかに作風が変わったのを感じ取れます。
その賛否は今も尾を引く論争となっていますが、当時の制作状況について知ると、それも致し方ないかなと思います。交代の理由ははっきりとは明かされていませんが、当時の制作陣の口の端に上がったところによると、前期の制作体制にかなり無茶があったようですね。確かに、素人目に観ていても、毎回遠出の外ロケで、魔化魍もフルCGだったので、それまでのライダーと比べるとかなりキツかったんだろうなというのが推し量られます。一視聴者としては、日本を代表する特撮制作陣の技術が結集した世界を毎回見れたのはとても嬉しい体験でしたが、やはりそれが労働である以上、働く人の良い環境の確保は最優先ですからね。後期の制作体制に移ってその負担が少しでも軽くなったのであれば、それで良かったのだと思います。
②けど前期が好き
といいつつ、見返してみると、やはり高寺体制の前期が大好きでした。当時リアタイしてた時の記憶に残っているのも前期が大半でしたし。先に述べた通り制作体制に問題があったとはいえ、その分いつもより贅沢に労力が注がれて響鬼の世界観が構築されていたので、そこにどっぷり浸かることができました。基本的には、和をテーマにして、民間伝承や修験道、陰陽道といった日本の神秘の世界をコンセプトにしたプリミティブなおどろおどろしさで覆われながら、猛士の組織体系やシフト制、音撃武器の研究開発などシビライゼーションされた部分もあり、オタクにとってはかじりがいしかない部分ばかりでした。
③前期と後期の違い①―お話のコンセプトの違い
後期にも上記のような要素は受け継がれているのですが、やっぱり前期と違うなという印象があります。どこが違うのか、色々考えてみました。
まず、大前提として、前期は、作中世界と現実を地続きにして、お話にヒビキとの交流による明日夢の成長を視聴者自身の体験と重ねようとするテーマ性が見られたのに対し、後期は、作中世界と現実を切り離して、お話を明日夢やヒビキといったキャラ同士の群像劇に収束させたという違いがあると思います。
前期の世界が現実と地続きになっているというのは、明日夢の苦悩や成長の描写がキャラだけの体験ではなく、視聴者自身の経験となるように抽象化されていたことから伺えます。例えば、明日夢の高校受験のお話。明日夢が志望校を1本に絞って、勉強をし、合格したという明日夢個人の体験に留まる部分よりも、周りと自分が違うことに焦りや劣等感を覚え、何をするにも手がつかないという視聴者も共感できる部分を相対的に厚く描いていました。受験成功譚では傾向として前者が詳細に描かれますが(『ドラゴン桜』『2月の勝者』etc)、後者に重点を置かれた本作では、明日夢の受験話を、特に十代が抱きがちな上記のような苦悩を媒介に視聴者自身の普遍的な経験として重ね合わせようとする試みが感じられました。そこに、そんな苦悩とどう向き合うべきかというテーマ性が生まれます。そうすると、鍛えるしかないとヒビキに導かれた明日夢の体験が、視聴者の体験にもなります。だから、自分もこれ観終わったら今ある課題に向き合わなきゃって思いました笑。前期には、ある意味で子ども向け番組らしい仕掛けがありました。その集大成は、やはり28話、29話ですね。28話で驚いたのは、突然殴られた明日夢が出てきたことです。もしかしたら、『クウガ』47話のダグバの虐殺みたいに、あまりにも描写が直接的になってしまうため殴られるシーンは断片的に留めたのかもしれませんが、そうしたことで、突然理不尽な悪意に晒された苦悩が、万引き犯に殴られた明日夢個人のものに留まらず、同様の苦悩を味わった視聴者のものにもなっていました。だからこそ、明日夢とヒビキのキャンプでのやり取りが視聴者へのエールのようになっていましたし、29話ラストは、自分がその響鬼紅の戦いを観ていたと錯覚してしまうほど感情が熱く滾っていました。29話を響鬼の実質最終回という向きもありますが、前期制作陣の想いが詰ま込まれているという点では、それも的を射た表現だなと思います(実際、対談で細川さんと下條さんが29話は鬼気迫るものがあったという旨のことを仰られていました)。
一方、後期になると、明日夢は京介との出会いでヒビキの弟子になるというおおよそ視聴者が一般にしない体験をする話がメインとなります。それに合わせて、作中人物の経験や感情が、視聴者にも当てはまる普遍的なものとしては描かれず、あくまで『響鬼』というフィクション世界に生きるその人個人のものとして収束するようになります。鬼の重責はおおよそ視聴者の共感の対象にはなりませんし、師弟関係も作中のキャラたちにしかないものですし、恋愛パートに関しては皆んなトンチキですし…笑。前期では作中人物の苦悩や経験が視聴者にも共通のものとなるようにある程度抽象化されていましたが、後期ではもうそこは割り切られて、あくまでそのキャラを欠陥のある1人の人間として描くことが重視されていました。その結果、テーマ性よりも群像劇がメインになっていきましたね。群像劇だからこそ、前期にはほとんど見られなかったキャラ同士の不和も必要となり(特に京介)、主に明日夢を通じて『響鬼』の世界観に身を置いてきた視聴者としては、そこに拒絶反応が起きたのは必然だったのではないでしょうか(特に京介)。その分、宗家出身の重責に悩むイブキだったり、斬鬼さんとの関係に悩むトドロキだったり、京介に気後れする明日夢だったり、キャラが視聴者にとって応援しやすいものになっていました。キャラを描くという点でいうと、前期では人と分かり合えないものとして描かれていた童子と姫が、後期では自我が芽生えたのも印象的でした(最終話)。童子と姫ですら人らしくなるのですから、鬼たちも前期のように安定した職人のままではいられませんよね笑。
視聴者自身の咀嚼が求められるテーマ性のあるお話が展開する路線がウケなかったから、そういった作業を要さずにキャラを応援だったり感動したりすることのできる群像劇に移行したのは、作品の立て直しとして最適解でしたし、その中心に『アギト』~『555』でライダー同士が1人の人間としてぶつかり合う群像劇を手掛けてきた白倉井上両人を据えたのも最適解でした。
④前期と後期の違い②―「過程」の扱い方
そういった違いを踏まえると、前期と後期での「過程」の扱い方の違いも浮かび上がってきます。
まず分かりやすいところでいうと、鬼たちがたちばなから魔化魍の出現地点へ向かうまでの移動カットです。前期では、鬼たちのベースとなるたちばなが東京の下町(柴又)にあることが示され、魔化魍が出てくると、「屋久島のツチグモ」「房総のバケガニ」というように、そこから遠い地名+名前で呼称されます。これにより、人と魔化魍の物理的な距離の遠さが強調されます。そして、そこを鬼やサポーターが車やバイクに乗って時間をかけて移動している場面を重ねて描くことで、鬼たちが人里離れた妖の世界に入っていく合図になっており、それが本作のプリミティブでおどろおどろしい世界観を構築するのに一役買っていました(常ならざる世界へ立ち入る合図として長めの移動カットが用いられるという点では、キューブリック作品にも通じるものがある…?)。一方、後期では、東映ワープ(井上ワープ?)という言葉が用いられてきたそれまでのライダー作品と同じく、移動カットはほぼ省略されて、鬼たちは連絡を受けてすぐ魔化魍のもとに駆け付けていました。群像劇を描くのに長めの移動カットは不便ですからね。ただ、この点に関しては、前期の移動カットが大好きだったので惜しかったですね。
また、キャラの苦悩と成長の過程が厚く描かれていたのも前期でした。高校受験のお話もそうですが、前期では、明日夢の苦悩がヒビキたちとの交流を通じて成長へと向かいます。一方、後期では、心情の移ろいはあるものの、それが必ずしも苦悩からの成長という過程ではありませんでした。前期が同一人物内の心情の変化を垂直方向に描いていたとしたら、後期は、複数のキャラにまたがって水平方向に心情の移ろいを描いていたとでもいえるでしょうか。過程ではなくこういうことがあってこのキャラはこんなことを思っていますという結果を端的に描いているから、その結果と結果を突き合わせることで、このキャラは今は対立していて、こっちのキャラと近いというように、群像劇を整理しやすいような描写になっていました(明日夢と京介がヒビキに弟子入りするまでも、明日夢が京介に気圧されて弟子入りを志願し出すという結果が描かれましたが、なぜそう思ったのかという過程については深く描かれていませんでした)。
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