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DAU. Nikita Tanya(原題)
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『DAU. Nikita Tanya(原題)』に投稿された感想・評価

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こちらの番組で本作品について語ってます。観てね~
https://shirasu.io/t/genron/c/ura/p/20211124234526

[多元愛人論は妻に通用するのか?] 70点

DAUユニバースで1956年は外部にいる人間が研究所で"平和に"暮らす研究者の生活をかき乱す年と設定されているようで、ランダウの結婚生活の破綻が結実した『Three Days』では、彼のギリシャ時代の恋人が研究所に登場し、初恋の幻想を打ち砕いていたのも記憶に新しい。本作品は稀代の好色漢ニキータ・ネクラソフを中心に据えた"ネクラソフ二部作"のうち、彼の後半生を網羅的に描いた『String Theory』に続く二作目で、研究所外に暮らしていた妻ターニャと二人の子供たち(ボリスとリリア)が研究所に移り住んできた1956年を描いている。前作では妻不在の中で不倫しまくった挙げ句、妻と愛人という関係性を越えて愛人すら複数人囲おうとしていたが、本作品では前作でヒモ理論を応用して完成した信じがたいクズ理論を妻にまで展開していくことで、結婚という殻の内側を覗き見ていく。

本作品の共同監督がエカテリーナ・エルテルであることを鑑みても、本作品は『Nora Mother』に似ているだろう。ノラとその母親の会話はどこかノラ中心的で、ノラの頭の中にいる天使と悪魔が母親の形で表れ、自問自答を対話として具現化しているような都合の良さがあった。本作品でも、ネクラソフの多元愛人理論を理解しようと問いかけるターニャの言葉は、どこかネクラソフ中心的で、彼の中にあった迷いを自問自答する様が妻との会話として具現化したかのような奇妙さが残る。その点、結婚(一人の女性に添い遂げる)を"人間としての制約"のように捉えて、そこから逸脱することへの恐怖や不安を言語化して虱潰しに正当化していこうとしているようにも見えてくる。
『Nora Mother』との類似性は印象的な十字のテーブルで口論するシーンがあることからも意識されていることが分かる。

ネクラソフは愛人を抱えることの罪悪感を妻に吐露することでそれを擦り付け、自身の正当化を図ろうとしたんだろう。しかし、ターニャはド正論で反論することで、『String Theory』の愛人たちや『Nora Mother』のノラ母娘とも違うことを証明してくれる。彼女は幻想でも都合のいい女として消費される存在でもない、人間なのだ。愛に屈して有耶無耶にしてしまう女性陣が多いDAUユニバースで、"その暴挙には耐えられない"と普通のことを口に出して言ってくれる人は意外にも初めてかもしれない。全体的にナヨナヨしていた『String Theory』に比べると、"夫は好きだけどこれは受け入れられない"というターニャの苦悩と(受け入れるべきではないが)、"自分のQOL上げたいから是非とも受け入れて欲しい"というネクラソフの独善的な欲望がぶつかる終盤の口論は、全体的に疲れ果てた人の多いDAUユニバースでは『Brave People』の口論シーンに並ぶ迫力がある。

本作品の奇妙な点は、『String Theory』に登場した愛人たちとの不毛な会話と対比させるように、ネクラソフの多元愛人理論についての是非を夫婦間で延々と語ることで、"結婚"とは何かを描こうとしていることだろう。その点、終着点はかなり手前にあるというか、押し問答がずっと続くのは実に滑稽だ。カーチャは呆れ、ゾヤは思い悩んでいた対比として、ターニャは"理解しようとしている"と描き、彼女がネクラソフの最後の砦であることを強調し、それこそが"結婚"という"制約"の主産物であるとしているのだ。総計262分の戯言に付き合わされた結果、私の頭の中には"いやダメでしょ"としか出てこないが、"ネクラソフ二部作"の対比には意味があるのだ。そして、先述の『Nora Mother』(或いは『Katya Tanya』)におけるノラのランダウへの狂気的な愛情とも対比されている。ノラはランダウが好きすぎるあまり、彼が好きなものまで好きになって同化しようとしていたのは『Katya Tanya』でも書いた通りで、恐らく彼女は"どうせ愛人を囲うならその中で一番になってやろう"という思考から行動しており、ランダウを理解するより先に受けいていてたように思える。そう考えると、DAUユニバースに登場したこれら二組の印象的な夫婦はユニバースを通して対比されてきたのだ。ようやくユニバースっぽくなってきたじゃないか!
ちなみに、映画的な帰結は有耶無耶にされているようにも見えるが、ターニャはネクラソフへの愛に屈してしまったわけではないと私は思っている。"てめえの自由にはさせないぞ"とまで強い意志があったとは思えないが、終ぞ変えることの出来なかったネクラソフに対して、恋人の一人として終わらせない覚悟というか、自分は妻であるという自負みたいなものも見えた。

追記
よくよく考えてみたら、多元愛人論に対して"妻"という存在は特異解のような対応になっている。特異解は微分方程式の一般解の任意定数にどんな値を代入しても得られない解のことを指す。つまり、『String Theory』では一般解を、本作品では特異解を求めることで、多元愛人論を完成させたのだ。
3.7
DAU版「ある結婚の風景」

どうしても不倫がしたい科学者夫ニキータVS普通の夫婦像を求める同じく科学者妻ターニャの壮絶バトル。こればかりはソ連だから・共産主義だからどうとかいうより、科学者のおっさんによる科学的根拠に基づく(笑)歪んだ思想が振り切った結果で、こういうイカれ作品が観たかったんDAU。夫の女性軽視や妻の保守的な結婚観に触れられるので、ある種(というかガッツリ)フェミニズム映画というか、これをDAU世界で見られるのは面白い。

豚殺しも厭わず発言の節々に過激性を垣間見せてくる息子君のサイコっぽさがハマったけど、実際にこの子もこのセットで生活させられて現実での思想にまで悪影響を与えられる可能性もある……?と考えると、一気に寒気が。。