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恋は光のnetfilmsのレビュー・感想・評価

恋は光(2022年製作の映画)
4.3
 恋する女性が光って見えるというのは西条(神尾楓珠)という物語の主人公の特性であり、これを悪用し、手あたり次第に女性に近付こうと年頃の悪い奴なら考えるはずだが、西条は決してそんなことはしない。そもそも光らずとも相手に脈があるか否かは多少の恋愛経験がある大人なら誰でも考え付きそうであるが、恋に奥手な者がこのような特異体質を持つから厄介だ。西条はとにかく古い小説が好きな文学青年で、ある日ゼミ室の机に誰かが忘れた手帳の中身を覗き見るのだが、そこにびっしりと書かれた文章に戦慄が走る。女性のルックスではなく、書かれた小説のラインナップと批評に惹かれるというのがミソで、相手の心根に惹かれたのだ。ただこの惹かれた心象風景と脳が上手く伝達できず、男の心はただただ路頭に迷う。一見してかなり風変わりな恋愛ものを引いてしまったように思う。そもそも最初にかけられた冷や水は西条にではなく、自分の欲望に忠実な宿木(馬場ふみか)の略奪に対しての寝取られた女の怒りであるからワケが分からない。西条は手帳を覗き見て性根が気になりだした東雲(平祐奈)と接点を持つために、幼馴染の北代(西野七瀬)に恋の仲介を頼むのだが、北代は浮世離れした東雲とあまり話したことがない。そのうち三角関係にまったく関与しなかったはずの宿木までトライアングルに強引に割って入ろうとするから厄介極まりない。

 西条という男は、文学少女の東雲に興味を持ちかけた途端に北代と宿木をも巻き込んだ恋のさや当ての中心に置かれる。『モテキ』ならば一夜にしてハーレム状態にひたすら浮かれるばかりだが、浮かれるも何も西条は自身が置かれた状況にほとんど気付いていない。東雲との交換日記は女性との距離を縮めるものではなく、専らミラー効果で恋愛を哲学することで、自身の秘めた心境に気付くために使われる。その様子を心ここに在らずな様子で見つめる北代もまた、本来ならば2人を催眠状態から目覚めさせるはずが恋のライバルと意気投合し、互いの恋愛観を曝け出すから不思議だ。恋に臆病な癖に、大事なものを取られそうになると静かにマウントを取り合う勢いだが、真に独創的な脚本は常に予想を裏切り、恋愛映画の定型に嵌ろうとしない。ファースト・キスを奪われれば「この泥棒猫」くらいの勢いで、髪の毛を引っ張り引きずり回しそうだが、ゼミ室の椅子を微動だにしない北代は、西条に聞いてから判断したいなどと冷静に嘯く。中盤以降、西条を巡るトライアングルは互いの恋愛観をぶつけ合い、哲学的な問答を繰り返す。そこに西条はほとんど姿を現さない。女性たちは1人の男を巡り血みどろのケンカを繰り返すどころか、孤独な東雲の屋敷に集まり「パジャマパーティ」などと称し、各々のレイヤーの違い、感性の違いに恐れ戦き、他者との違いを受け入れる。恋愛は既に脇に追いやられ、まったく個性の違う女性たちの、同じ男に恋した女の奇妙な連帯ばかりが闇雲にクローズ・アップされる。

 この女同士のトライアングルの台詞の応酬が兎に角、滅法面白く、ひたすら熱を帯びる。その面白さは明らかに濱口竜介の『偶然と想像』以降の方法論であり、中盤からの怒涛の展開はとにかく目が離せない。西条を前に東雲と北代は一見真逆な性格だが(方角が頭文字)実は互いの共感の幅は広く、思うような修羅場にはならない。だがそこに宿木が割って入ることにより、暗中模索的なある種のカオス状態を作り出す。一方で主人公の恋の光が見える問題は継続中であり、特異体質を探る中でもう1人の誰かと出会う。この瞬間に登場したある人物の姿にたまげると同時に、物語のカギを握る人物だとわかる後半の展開には心底痺れた。あの人の気付きは、起承転結で言えば「転」の瞬間だ。あの瞬間、2人の純粋な驚きの表情はあるが、2人の目線は交わることがない。気恥ずかしさを押し殺すような彼女の表情。そこから先はジェットコースターのようだが、小林啓一は焦ることなくじっくり丁寧に攻める。明らかに歪な恋愛映画であるものの、その歪さは真にドラマチックだ。現代的なドラマにおいて物語を動かすのは主人公の西条ではなく、3人の女性のピュアな気持ちが物語上の重大な求心力となる。そう言えばシーロウ・キーターなんて聞きなれない哲学者だと思ったら不意に、である。ある種、今の若者のSEXのない恋愛を逆手に取るような、真に独創的な2022年の恋愛映画の登場に心底震えた。
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