一色町民

TAR/ターの一色町民のレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
5.0
 はっきり言って、本作は1度の鑑賞だけでは理解が難しいです。1度だけでは捉えきれない多くの情報が盛り込まれていて、一見関係のない情報が実は密接に結びついているのですよ。一見すると実話かと思わされるくらいに、徹底的に作り込まれた設定と凝った作劇。膨大な情報がさりげなく詰め込まれ、一度観ただけで全てを把握するのはほぼ不可能です。

 権力者が転落していく話は珍しくないけれど、本作はそれほど単純ではないし、解りやすくは作られていません。あえて、様々な解釈が出来るような描かれ方になっています。ですから、もう一度観たいとは思うのですが、1日に1回しか上映されないし....。

 カリスマ指揮者の葛藤と苦悩が描かれますが、まるで(日本の)ホラー映画を見ているような気分でした。ケイト・ブランシェットの狂演とも言える映画でもありました。
 冒頭から、メールなどで名前が映る「クリスタ」という女性。彼女は、かつて主人公・リディア(ケイト・ブランシェット)を崇拝しており、何らかの原因で自殺を図ったのですね。クリスタの死に関係していないか疑いの目を向けられるリディアですが、人前では否定するものの、実際は明らかに意識しているんですよね....。

 本作の事前情報では、成功した女性指揮者がパワハラで破滅する物語だと思ってていたのですが、これは思いっきりミスリードでしたね。いや、確かにリディアが恣意的に人事権を行使している様に見えなくもないのですが、あくまでもそう解釈することも可能という感じで、少なくとも彼女は、ハラスメントを行っていないです。

 自分は“天上天下唯我独尊”だと思っているけれど、実は周りから卑下され嘲笑されているリディという人物は、彼女自身が演じたウディ・アレン監督の「ブルージャスミン」とも共通します。でも、「ブルージャスミン」をコメディ抜きにしたら、本当に恐ろしい作品に仕上がっていくわけですよ。
 全編、音が迫ってくる重圧感に息苦しくなる感覚に襲われます。セリフさえも音にしか聞こえず、いつの間にか主人公の周りの存在さえもが音の化身であるかのような錯覚に陥ってしまう。主人公の心象風景が画面に展開していく、ある意味恐怖の塊のような作品。特に後半は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」を思い出させる恐怖感でした。

 とにかく作品全体が狂気のような重圧感で包まれています。息つく暇もない息苦しさのままラストまで引き込まれる作品で、リディアが楽団員に指示するドイツ語には字幕もつかず、言葉さえもリディアにとっては音符の一つなのではないかとさえ思ってしまう。ヴィスコンティというセリフが聞き取れたことから、明らかに「ベニスに死す」を意識した演出も見られます。全体として、一人の天才指揮者の追い詰められる苦悩を映像化した感じの作品でした。








以下、ネタバレです。








 そして迎えたライブ録音の演奏会。大勢の観客の前で、リディアは後任の指揮者に暴力を振るい退場させられてしまいます。
 ベルリンを追われたリディアは、ニューヨークのスタテン島にある実家を訪れます。彼女はそこで膨大なビデオテープを見つけ出すのですが、それは彼女が冒頭のインタヴューで、師弟関係にあると語っていたレナード・バーンスタインのコンサートを納めたテープでした。彼が音楽の本質と喜びを語る姿を見て、リディアはその言葉を噛み締め涙を流すのですが、直後に帰宅した弟トニーとの会話で、彼女の本名がヨーロッパ風の“リディア”ではなく、いかにもアメリカ的な“リンダ”であることが明かされます。バーンスタインの死去時には、まだ20代前半で、少なくともプロの音楽家として、リディアが直接彼から薫陶を受けたとは考え難いことからも、名前を変えただけでなく、彼女の輝かしい経歴もかなりの部分が詐称なのかも知れないことが疑われます。

 人生の迷宮に彷徨うリディアは、最終的に東南アジアのある国(フィリピンかベトナム?)で、イベントの指揮者としての仕事を得ます。「地獄の黙示録」のロケが行われたというので、フィリピンでしょうか。
 その仕事というのが、コスプレイヤーたちが集う、ビデオゲーム「モンスター・ハンター」のイベントコンサートなのでした。指揮台に立った彼女には、大きなヘッドセットを被り、ビデオゲームの画面に合わせ指揮を執る....。
 だがしかし、指揮者としての喜びを奪い取られ、屈辱的な仕事をしているはずの彼女は、妙に突き抜けた表情を見せているのですりよ。第二の人生の初仕事が、“怪物“を狩るゲーム音楽であり、彼女が指揮するのが「新世界への旅たち」のシーンというのも意味深です。

 衝撃的なラストと言われていますが、確かに衝撃的ではありました。はたして本作は、全てを持っていた女性が全てを失うまでを描いた悲劇なのか? それとも、理想化された自分によってガチガチに固められていた女性が、音楽家としての自由を取り戻すまでの物語なのか....。
 ちなみに、ラストが「モンスターハンター」のイベント会場だというのも、画面の中では説明がなく、エンドクレジットでようやく分かるのですよね。それほど不親切な作劇の作品でした(苦笑)。
一色町民

一色町民