せいか

TAR/ターのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

TAR/ター(2022年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

05/26、Amazonビデオにてサブスク視聴、字幕版。
主役を演ずるケイト・ブランシェットさんの役へののめり込み方がすごくて、シーンによっては本当にターという女性指揮者は実在していて、そこでインタビューに答えているというような錯覚にも陥ることもできたので圧倒されていた。
本作はさまざまなハイカルチャー要素で武装し、それに旧態的な在り方や支配的な在り方というものを重ねつつ、最後はサブカルチャーと共に立ち上がるような作品だった。主人公はベルリンのオケの首席指揮者で才能豊かな成功者として持ち上げに持ち上げられていた立場から(ほぼ身から出た錆のために)没落して東アジアの片隅で指揮棒を振るに至ることになるのだけれど、それがバッドエンドというより、確かになんかもうしんどいものはあるのだけれど、割と周囲も世間もどっこいどっこいで地獄なのもあって一種の開放感に近いニュアンスを持たせて終わるものになっていたと思う。主人公は作中で自分にとっての目の上のたんこぶのような副指揮者を追い払うときに、指揮者はさすらうものだろと、自らは安定した位置にどっかりと座りながらにべもなく吐き捨てた場面なんかがあっての、ラストにまさに自分がさすらうことになるラストにつながってもいて、そういうところなんかもとことん因果応報な話にはなっているのだけれど、あくまでそれでも抗おうとはするようなところで物語が終わっているからか、そこまで暗い余韻が残らないというか。

作品自体はなんかもういろいろ盛り盛りでどうまとめたもんかみたいなところがあるものになっているのだけれど、最初から最後まで面白いものだった。ただ、後述するけれども、作品の外野にあたる字幕部分でひたすら首を傾げる羽目になるものになっていて、そこで私の怒りのフッテージが突き抜けさせられていた。作品とほぼ関係がないところでウギーーッとさせられたので、なんかある意味、作品が言うところの、作者その人とその才能(作品)はいかに切り離せるものか?というのをパロディーで置き換えてメタ的にやられるスタンド攻撃を受け続けた気分というか。マジでどうにかならんか?とイライラしながら観ていた。

なんであれ、本作を観て一番思ったのは、物事は断片的に何らかの主観の下に取捨選択されて提示されるものだから、それを受け取る「私」はそれを踏まえた上で自分の頭で考えながら物事を見るということをしようということだった。
あと、人の立場に立っていろいろ考慮して親切に振る舞おうということもというか。あったかい世界つくろうぜ……。

+++

本作では、白人社会とそれ以外、クラシック界というハイカルチャーが見せる世界構造、富める者と貧しき者、支配者と被支配者、男性優位的な社会とそれに押し潰されるもの、マジョリティーとマイノリティー、性関係、宗教、戦争等々、とにかくあらゆる形で強者対弱者の構図が取られており(いちいち取り上げるとキリがないほどほんとにやたらめったらというくらいある)、この作品の軸にあたるものをこれによって形成している。主人公はひたすら強者側に立ち、その強者側がしばしば振る舞う残酷なところもあますところなく持ち合わせていて、我がままよと横暴な振る舞いを続けているし、しばしば強者とはそうであるように、それを世間に容認されながら安穏と生活を送ってもいる。
主人公が、指揮者はオケや曲を支配するものだというようなことを要は言っているように、彼女の役職として指揮者という立場を与えたのも何を意図したものであるのかはかなり分かりやすい。もっと言えば、彼女は指揮者である前に学生時代はピアノを専攻もしていたのだけれどピアノは一人オケとも言えるほど独立独歩が可能な楽器であり、オケでいわゆる弾き振り(=ピアノを演奏しながら指揮をする)ことすら可能なものでもある。そこの設定もなぜそうしているかはかなり分かりやすいものになっている。彼女は楽曲さえも(割と度を越し気味に)自分の解釈を重要視してもいて、圧倒的且つこの世を我が物とする傲慢さを抱えた自分という存在によってオケを制し、その力の下に秩序を敷き、一個の美しい音楽を完成させている人なのである。本作はそういった秩序体制が生み出す綻びと破滅を表現するもので、彼女の世界の崩壊はそこに仮託されていた一個の世界の崩壊と重なるようにもなっているとも言えるものになっている。一つの調和された音楽(世界)って結局のところどう生み出されるべきかというのを問う作品でもあると思う。そして皮肉なことには、そうして演奏される音楽という世界の土台のようなものがそもそも選択者の主観的な取捨選択を避けられないところがあるというところもしっかりと作中で表現されているわけでもある。だから最後に主人公がフィリピンのオケと練習するときに、オケのメンバーたちにどのように曲と向き合うか、作曲者は何を意図しているかを考えようというように語り掛けているところは、この物語が単に破滅で終わっていないところを表現するものにもなっていることを表現しているシーンでもあると思う。

この点でさらに主人公のキャラクターにグロテスクさを増し増しにしているのが、彼女が女性であるというところだろう。彼女は強者側に立てた女性として自らの才能に圧倒的な自信を持っている。(男女関係ないが)しばしば、恵まれた環境の人間が、自分は己の努力によってこの立場にいるのだと足下を見ないで言っているような、まさにそういう態度で居るわけである。だから彼女はフェミニズム的な観点抜きに自分は男と並べる存在だと語るし、むしろフェミニズム的な観点による男女平等意識というものはなく、結局は才能があるかどうかだとそれらしいことを言いながら後続の女性が続くための道は作らずに、丁寧にそれは閉ざすということもするのである。このへんは現実のいわゆる勝ち組の女性にもまさに見られるところがある振る舞いそのものなので(日本国内で分かりやすいところを挙げると、国政の政治の世界とかまさにそこが露骨なところあると思っている)、丁寧にそこのところを描いていて、オゲーッとなっていた。自分が通ってきた道を辿って来ないように潰しておくやつである。主人公が本当にフェミニズムに興味がないことを示すために、彼女が国際女性デーを認識していないこと、ベルリンで活動していながら大戦期の有名な女性活動家であるクララ・ツェトキンのことも知らないという描写すら挟まれるくらいである。主人公は自分が女だからどうだと見られるのは嫌がるけれど、そこに女性解放的な意識は一切ないままにそれを成り立たせているのが本作は本当にうまいというか、しみじみ、現実に目の当たりにする酷薄な態度を持つ人の抽出がうまいなと思いました。いるんだよな、これ、マジでさ……って感じ。無関心さと鈍感さというところも含め。
もちろん、女性が活躍すること=すぐさまフェミニズム的な観点で凝り固まるのもそれはそれで問題はあるのだけれど、主人公はその問題となるところを狭い視野で取り上げて反発しているというキャラクターになっていたと思う。で、そういうところもゴロゴロに見かけるやつなのだよなあ。セクハラとナチスの支配関係に何か繋がりがあるか?というようなことを言ってたことにしても、物事を見る目の欠如がよく現れていたと思う。
(補足すると、そもそも制作者は当初は主人公を男にするつもりで長年プロットを作っていたけれど、コロナ禍に世界が混乱する中で急転直下、今の形で脚本をまとめ、撮影に至った経緯がある。)

主人公はさらに同性愛者でもあって、ここもまた作品のグロテスクさに拍車をかけている。もちろん、私はここで同性愛者はグロテスクという話をしているわけではないことは強調しておく。つまり彼女は弱者側に置かれがちな立場にあるけれど、そこを乗り越えて強者として振る舞える人として扱われている。だからこの同性愛者というところにしても、性愛に支配された強権的態度を振る舞う当人として描かれる題材になってもいる。オケの秩序を無視してお気に入りの子を無理やりヨイショしたりとかしちゃうわけである。オケの要ともいえる第一バイオリン奏者も自分の妻であったりもするから、どうやらここでもやや難が出ていたらしいことは作中からも伺える。要は、男性優位社会でまま見られてきたセクハラ構造がまたパロディー的にここにも落とし込まれているわけであるし、現実にも強者となった女性が同じように振る舞っていることもあるそのもののことを表現してもいるわけである。繰り返すように本作では主人公を同性愛者としたことで同時に女を振り落とす女というのも描いたり、女性進出を阻む女というものもこういうところにもさらに乗っけて描く構造にもなっていて、無駄なく一度に広域に焼け野原にしていて、やはりなかなかうまいことをするなあとも思ったのだけれど。
物語ラスト、フィリピンで、そうとは知らずに性風俗的な意味のマッサージ店に送られて、金魚鉢と名称付けられたガラス張りの部屋の中に待機する女の子たちから誰かを選べと言われて、ジッと5番(=作中で自分が取り組んできたマーラーの音楽と同じ番号)の札の女の子に見つめられて慌てて外に飛び出して嘔吐するという因果応報ぶりとかもうまいのだよなあ。彼女がこれまでしてきたことを端的に表したらそういうことになるので。授業のシーンで、演奏リストの作成には選定できる立場の人間の好みなどの恣意的なものも多分に含まれるものだよと自ら語っていた言葉すら、作中でまさにそうした振る舞いもさせていたけれども、返す刀としてさらにここでバフをかけてもいるわけである。


作中では割りかしネタの背景知識を求められる箇所もままある。扱われている指揮者や音楽家の音楽やパーソナルなところもそうだし、ユダヤ人であるとかそういうところもだし、各種映画作品や小説なんかもとにかくいちいちいろいろが散りばめられている。ここもいちいち取り上げてこれはこうでとか説明するとキリがないくらいなので端折る。
ただ、とはいえ少し取り上げておくと、作中で主人公が贈られた本はヴィタ・サックヴィル=ウェスト著の『Change』で、これは女性である著者の半自伝的な要素を持った作品である。ここでヴィタは「男装をして男のようにして」いるという特徴があったり、同性愛者であり、なおかつそれ関係のセックス・スキャンダルを扱ったものとなっている。この小説の献辞にはロマ語で「この本はあなたのものです、名誉ある魔女よ。もしあなたがこの本を読んだならば、あなたの痛めつけられた魂は変化し、自由となるでしょう」とあって、つまりここでは主人公を徹底的に皮肉るものとして作用しているからこそ、彼女も興奮して本をゴミ箱に突っ込んでいたわけである。
ついでにいうと、ロマ語ないしロマ(ジプシー)という要素が出ているのも、「さすらう」イメージの反復でもある(他の箇所でやたらと出てくるユダヤ要素にしてもそういう側面もあるだろう)。また、本に描かれていた模様はペルーのケネというもので、ここで作中の他の要素にちょこちょこ出てくることになるアマゾンというものも取り入れられているわけである(主人公は指揮者になる前にとある先住民族がいる所に長期滞在していたという設定もある。ここでどのように彼女が暮らしていたかは作中では明かされない。)。マーラーの交響曲第5番から連想する(かつ、そうなるように作中でも誘導している)『ベニスに死す』にしろ、その作品の主人公が性愛によって破滅する話と言えるものだし、映画のそれなんかはまさにセクハラ問題を抱えたところを持っていたりもするけれど、その上、そこも「さすらう」という要素も抱えた作品でもあったわけである(そして横死したようなもんでもあるが)。
クラシックとアマゾン(と言うと映画版では語弊が出るが)の掛け合わせで言えば『地獄の黙示録』を彷彿とさせるし、あれもあれでハイカルチャーなところでゴチャゴチャしているところもあったのだけれど、最終的に本作の主人公も東アジアに流浪したりもしているわけである。こっちが行ってるのはフィリピンだけど、『地獄の黙示録』もロケ地の観点で言えばフィリピンで撮影を行ってはいるわけである。これに関しては、主人公がフィリピン旅行中に映画の撮影でワニが放されたのがまだ川に居るという都市伝説的なものを聞かされるくだりから、本作が意図しているのはむしろ『D.N.A.(1996)』(※『モロー博士の島』を原作とする)なのでは?とも言われているけれど、個人的にはどちらを連想してもいいものになっていると思うというか、どっちも踏まえて捉えていいものになっていると思う。あと、これもまた厳密にはベトナムを舞台にしてるものだけれど、本作のポスターでは主人公が指揮台で両手を広げている姿が印象的に用いられているけれど、ここなんかはちょっと『プラトーン』の有名なシーンを彷彿とするような気もする(ただここまでくると「気もする」の域を抜けないが)。『プラトーン』においてかの登場人物がそもそもがきったねえ社会の中にあって諮られて結果的に敵陣に放置されて見放されたというのも重なるものがあるというか。等々、この辺全部それぞれの作品と原作踏まえて捉えてくれってところなのでいちいち説明しないけれども。
とにかく繰り返すように本作はハイカルチャー的なところとか教養的なものを踏まえて理解していくところも多分にあるのだけれど、それで最終的にサブカルチャーとオーケストラの混合の指揮に落着させるのも、繰り返しになるけど、構成の巧みなところだと思う。まさにChangeが起きて終わる前向きな終わりの感があるというか。主人公は自分の人生を見つめ直し、実家に帰って己のスタート地点さえ改めて捉え直した上で、(映画作品を通した上で)白人男性の支配者として振る舞っていたカーツ大佐やモロー博士を連想とさせる東アジアに降り立ち、そこで『モンスターハンター』のために指揮棒を振るわけで、今後の彼女がどのように歩んでいくかは不明瞭のままに終わるわけで、そこでまた強権的に振る舞うようになるのか、そういうかつてのものは打破して立ち上がるのかという余韻を残しているわけである。もっと言えば、私としては後者のほうなのではないかと思うけれども。でも、カーツもモローも流れた先で権威を取り直したキャラクターではあるんだけど、そういうことは彼女はすでにベルリンでやってきた後でもあるわけだし。むしろ彼女の場合、彼らがやっていたことを白人社会の中央、大戦期及びその後のあの社会の舞台であったその地でやってのけて済ませてきたのだから、後はかつてを見つめ直しながら音楽とも向き合い直すことをやっていくことになるのだと思うのだなあ。彼女は音楽作品そのものとの向き合い方だけはだいぶ真摯ではあったけども。

ついでに言えば、主人公の名前のリディアとは、聖書から連想すれば、ユダヤ教からキリスト教に信仰を変えて教会運営などにも積極的に関わった女性の名前である。このへんも意図的に人物名として採用したのだろうなあとぼんやり思いはする。


授業のシーンで、生徒が、バッハは女尊男卑的なところが何となくしてて嫌だと言うと、彼女は彼を槍玉に挙げるようにその態度を批判するのだけれど、ここに関しては私はだいぶ主人公の意見に賛成しながら観ていた。薄っぺらい人物評価でもはや食わず嫌いに近い好き嫌いでその人物を批判して作品そのものすら遠ざける態度は如何なものかということなのよね。
そしてまた、その生徒が代わりに出した人物のほうは、主人公がそう切り返すように、その人物も人柄の面で切り抜いてしまっていいなら、こういう問題点がありますよね?ということはいくらでも言えるわけである。全くまっさらな人間というものは存在するわけがないのだから、どこかしらに汚点は発生しうる。
結局、どう線引きするか、どこに秩序を持つかという話であり、主人公は、作品とその人はある程度切り離して捉えるべきだという立場で作品と向き合いもする人なわけである。そしてこういう立場からバーンスタインのようにいっそ作曲者の意向(楽譜)を無視して自らの主観的な解釈のもとに指揮するというやり方にも肯定的な態度を見せるという側面もあるわけである。私としてはバーンスタイン的な指揮はあまり好かないが。作曲者の意向は大事にしましょうよ……!
ともかく、その指摘を受け入れられずにまるで一方的に責められたかのように振る舞って授業をボイコットするこの生徒のほうがこのシーンではむしろ問題があったところでもあったと思う。この対話のなさというか、自分の認知を正しいとする態度みたいなのも、この多様化を謳う現代においてはその没コミュニケーションさというか、理想の割に進展するもののなさみたいなところもまたよく見られる光景だと思う。特にTwitter(X)なんか毎日のようにどこかしらで分かりやすいものが開陳されているものでもある。なんであれ、このシーンなんかも社会正義の歪みという本作の軸の一つを表現もしていたのだろうとも思う。
主人公が因果応報の社会制裁を受ける中で、このときの授業風景が恣意的に編集されて、まるで主人公がひたすら生徒に対してセクハラをかましたりヘイトをぶち撒けているように映し出されていたのとかも皮肉り方が巧みで、かつて強者だった落ち目の人間に対する世間の悪意だとか、白を黒にすることだとか、まさに授業の中で彼女が批判していたことを最悪な形でやってのけて印象操作をするだとか、材料の捌き方がいちいち上手い作品だよなあとはここからも思った。
世間の、好き勝手に「切り取って」物事を見る感じなんかも徹頭徹尾描かれていたと思う。彼女はどうしたって女性指揮者として捉えられるし、失態は槍玉に上げられる。ろくでもねー。


もちろん、主人公がやってきたことはひたすらサイテーなことばかりだし、養女を苛めていた苛めっ子を制裁するのに、「私があなたに何したところで周囲は誰もそれを信じない。だって私は(立場がある)大人で、あんたはただの子供だから」というようなまさに強者の驕った論法をそのままぶつけてたろくでもなさ過ぎるところとかもあるのだけれど、それに対峙する世間側もろくでもなくて、彼女が強者のときはこれを恐れておもねっていたのに、綻びが見えた瞬間に社会正義の大義名分の下に大人の顔をして引きずり落としていくという、こちらもこちらで相当なグロテスクさを持って描かれ続けていた作品だとも思う。この辺りはキャンセルカルチャーの問題にも掠るところがあるものにもなっている。
主人公が仕事部屋的に借りていたアパートの向かい側には大家が住んでいるのだけれど、その大家はかなりの高齢で耄碌している要介護状態の人物で、その介護を行っていたのが精神的な面に障害を抱えているのだろう娘であり、この大家が死んだ途端に別の娘が大人の顔をして登場して、介護を押し付けていた姉妹をさっさと施設送りにして厄介払いした上、騒音問題を盾に主人公を追い出しにもかかる。こういうところなんかもまさに形を変えて歪んだ社会の在り方を端的に描くものとなっている。主人公が一度この母子の介護風景に巻き込まれたときに汚らしいものに触れたという対応をしたことも含めてそうなのだけれども。おすまし顔で取り繕う世間の醜さと、その秩序の足下で踏みにじっているもの。
主人公の転落には、彼女が根回しをしてクラシック界から追い出したことで自殺した(というように捉えられる描写で描かれた)女性という事件があるのだけれど、この死を利用して、いつまでも主人公にこき使われるだけで地位が与えられないフラストレーションが溜まっていた女性指揮者が積極的にリークする側に回っていたりもするけれど、言うてしまえばその女性指揮者だってその死に大きく加担していた立場であったりもするわけである。それに世間も自殺した女性に同情した活動を展開しているけれど、その女性がまだ生きていてまさに困窮しているときには目を向けて戦うことはなかったわけである(知らなかったからとでも言うのだろうが)。そして主人公という制裁のための生贄を得た世間は嬉々として苛めっ子の役割をそうとは認識せずにやってのける。どこまでもグロテスクな構造で回りに回っているのが本作である。確かに主人公はろくでもないけれど、他もみんなどうかしている。追い詰められた主人公が、アパートの隣人の件を目の当たりにした後に狂ったように楽器を掻き鳴らしながらそれを歌って騒音を出してやるシーンがあるけれど、あそこなんかは一番胸にギュッとくるところだった。
結局、自殺した女性の件にしても観客に提示されるのは断片的なもので、どうやら主人公がその女性をクラシック界で活躍できないような根回しをしたらしいという点が開示されるだけである。ここなんかも実際は何があったかは隠したまま巧妙に視聴者を誘導している箇所でもあると思う。自分の好み(と言える要素を残したまま)でオケに外部の人間を取り込んだときにしても、そこで取り込まれた女性に技術力が全くないというわけでもなかったし、むしろ問題はオケの中の秩序を主人公のわがままで崩したことにあるという一点に尽きていただけだったりとか。この女性にしたってむしろ主人公を利用し、尚且つ彼女が落ち目のときには早々に切り捨てる残酷ささえ見せたヤツでもある。主人公の付き人状態だった女性指揮者にしても、さんざんコキ使われたのに出世の道は用意されなかった怒りは当然なところはあるけれど、だいぶ無責任なところがある。それに主人公が本当に自分の後人には道を閉ざしたいと考えてあのように振る舞っていたのかは実際分からないままだし、単純にこのまま彼女を採用するのは角が立ち過ぎると判断したからという可能性だってあるわけで、積み重なった怒りが爆発しているのかもしれないけれど、その経緯にしたって視聴者には開示はされない。本作、いろいろな不穏な要素がしっかりあますところなく映し出されているようでいて、巧妙にベールも掛けているところがあったと思う。情報の取捨選択がなされた上でわれわれは誘導されていると言えるわけである。本作から彼女はこういう人間だと決めつけることもまた本作が表現していた皮肉に自ら踊らされることにもなり得るという視聴者参加型的なところもあるのではとも思う(もちろん、主人公が全くの善人である可能性があるよねということはそれこそ全くあり得ないのだけれど)。

主人公は作中でだんだん聴覚がとぎすまされたやうになってむしろ幻聴を聞いているとも言えるようなくだりが随所に挟まれるのだけれど、あれはまさに彼女の(冒頭で他人の陰口によって無いものと否定された)良心の軋みであり、彼女や社会の歪みが発する軋み、騒音、異常音みたいなものだったのだろう。


主人公は曲解釈に対してはとにかく真摯というかそこがまた彼女の傲慢さが出るところでもあったけれど、とにかく、自分がそれをどう捉えるかということを大切にしているくだりは作中に何度も出てくる。それに対して周囲はただその解釈にフリーライドしようとしたり、彼女の考えを無視して好き勝手にテコ入れ助言をしたりもする(オケの練習の場面とか、彼女の自作の曲に対する反応とか)。
これを自分の意見を持てよという言い方に変えて捉えると、私もそこはかなり同意するところである。特に昨今、いわゆるタイパとも並べて語られることではあるけれど、誰かがこう言ったとかいうのに流されがちなところがやたらと目につくところがあって、自分の頭で考えて対象を捉えるということをおざなりにしているのではみたいなものがすごくあるので。その脳みそなんのためにあるん?みたいな。
彼女が転落していくときの世間の動きとかもこういうところを皮肉に捉えてるのもあったと思う。


マーラーの交響曲第5は、作中でも言われていたように、マーラーが愛するひとに向けた曲だと言われてもいて、主人公はそこを半ば茶化しつつ一応は同意しているくだりがあるのだけれど、上述したように、主人公の立場は作曲家そのものと作品は切り離したいという立場なので、心から同意してたわけではないだろうけど、この扱い方も本当に巧みなのだ。作品と作者は切り離すべきかという本作が軸の一つに取り入れているものがここでひたすら活きている。このついでに「ひとを愛すること」というテーマも並行して通奏低音としているわけで、やっぱり、一つの題材で美味しく味わいつくすように調理するのがうまいよなあと思うチョイスになっているのである。こういう曲を作中でずっと主人公に向き合わせてもいたわけで。
自分が作曲していた曲のタイトルが『ペトラのために』ということで、たぶん彼女が作中で唯一まともな愛情を傾けてはいたと思しき養女にあてることにしていたところとかも、彼女の人間性の一面を汲み取るのに欠かせないところでもあるし、もちろん、それだからといって全てが帳消しにはできないというジレンマのようなものを表すところでもある。


本作の字幕、結構な割合でドイツ語での発言箇所の字幕が省略されていた。吹替はどう処理してるのかは未確認。言うて本作、ドイツ語登場箇所がかなりあるので、それでこれってどうよ?とだんだんイラつき度合いが増していきながら視聴していた。中盤あたりで一旦ピークになったので休み休み観ていたくらいである。
例えば、「これはさ、ヴィスコンティの映画(※暗に『ベニスに死す』のことを言っている)で出てきたみたいに、映画音楽のノリで演奏するべきじゃないんだよ、だからもっと圧をかけて!」みたいなこと言ってるところだとかもほぼ字幕がなくて、暗に何の映画音楽のこと言ってるかとか明確に発言してるのに字幕では一切出さないとかでムカつきの重なり方がなかなかになっていた。ある作品のことを匂わせるところでいえば、終盤のワニのくだりもまさにそうである。字幕で出てないところでマーロン・ブランドが役者として出ている何らかの作品であるというところまではっきり言ってるのだ。そしてどっちも本作を理解する上で欠かせない情報であるはずの箇所でもある。字幕による、字幕だからその制約上仕方ないで片付けられないレベルの過度の情報の取捨選択されるのマジで嫌いも嫌いなので、TARのテーマの一つなんだろう強権側の一方的な支配みたいなものをそこで表現してるってことですかあ???って、すぐに皮肉をこぼす脳みそが斜に構えだしたわよ!!!!
言うてドイツ語部分そんな難しいドイツ語喋ってねえんだからドイツ語テキストしかご用意されなくても訳出頑張りゃできるだろうがよとキレながらのご視聴だった。もう訳出まで期待しないからせめてドイツ語ママで字幕は出してくれよ感。
この点に関して、円盤のレビューを見ていると、英語字幕で対応してなかった箇所のドイツ語部分に関しては日本語訳もやはり円盤化しても付いておらずみたいなのがあったので、やっぱりクソ重訳でハイおしまいで済ませとるやないかーーーいって感じだ。許さん、許さん……。仮に英語の翻訳者が対応できなかったとしても、ドイツ語は翻訳者に困るほどの言語でもないだろうがよ。クソがーーーーンアアア!!!!って思いました。
とはいえ、基の製作国の字幕(英語)からして端折ってるということは何らかの意図があるのかなあとも思うけれど、分かる人にだけ分かればいいということで、上述した皮肉をマジでやってんのかなあということで内心バチクソにキレながら理解しました。
義理の娘もほんとに単刀直入に「父さん」って呼びかけてるのだろうか?とも思ってのだけれど、私のリスニング力が低いのでどうだか。単純にリディアって名前呼びしてると思うんだけど。少なくとも父にあたる語彙の何かしらを直接言ってるように聞こえないのだけども。他にもなーんかちらほら字幕と内容に疑いを持つ箇所もあったが。原文で字幕をくれいっそ感。
せいか

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