好き勝手なてそ

胸騒ぎの好き勝手なてそのレビュー・感想・評価

胸騒ぎ(2022年製作の映画)
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試写会で鑑賞。
個人的にはまあこんな感じだよなという、特段好きでもないけど嫌でもない作品だった。欧州ホラーに馴染みのある方は観ても良いんじゃないかなという印象。

ただ平たく片付けるとどうしても「胸騒ぎ」より「胸糞」が浮かぶ映画ではあって、馴染みのない人には受け容れられにくい損しそうな映画だなぁと思った。
あれPG12だった気がするけどほんとか??
子供のかわいそうなシーンや、全裸シーンがあります。

■試写会のアフタートークショー
作品を観た瞬間は「Filmarksで胸糞タグつきそうだなぁ」と思ったけど、
アフタートークショーがその点ですごく良くて、平山夢明さんが仰ってた「要素の足し算を掛け算にしたり割り算にしたりして見ていく」というのは、どの映画にも通じて決して無駄にはならない見方だし、
特に今作みたいな「一見難解ではないからこそ胸糞に映って損しがち系」のホラーはその愉しみ方は必要不可欠で、登壇者お二人の視点や補足情報によってただの狂ったことやりたい映画じゃない感じは伝わってきたのがよかった。

■試写会のタブレット
あと、試写会でミンティアみたいなタブレットを配ってくれたの、狂ってて良かった。
誰のアイデアなんだ?映画を観る前と後とで見え方が変わるアイテムなんてセンスありすぎじゃないか。

■作品の印象
ざっくりと捉えると、観てきた映画の中では「ファニーゲーム」が近いと思ってて、ただ時間の配分が全く違くて、
コース料理で例えると「ファニーゲーム」が
前菜→スープ→肉→肉→肉→肉→肉…なら、
今作「胸騒ぎ」は、
小鉢→小鉢→茶碗蒸し→小鉢→小鉢→小鉢→肉 …くらい焦らされる。
ずーっっっと違和感の連続。ジャブまでもないちっちゃいデコピンを食らわされ続ける感じ。
なので、もしかしたら退屈に感じる人もいるかもしれないけど、その点で音楽・音の使い方がすごく良くて、ずっと物事の奥底にうごめいている違和感の正体を最大音量に出力してるみたいだった。

■音楽について
さっきも記したように、何にも怖いことが起きていないのに、終始ずっと不協和な音が響いている。
(ミッドサマーのキノコ食べて気分悪くなっちゃったときみたいな)
不協和でない音楽が流れるシーンもいくつかあるが、一番序盤だとイタリアでリュートみたいな撥弦楽器を奏でながら悲しい感じのメロディーを女性が歌い、それを観光客が鑑賞しているような場面がある。
突如出てくる美しいメロディーというのは、あの映画の中では重要なポイントであると思う。


━━━以下ネタバレ含みます━━━


■ビャアンのキャラクター
主人公ビャアンは、気弱なのか八方美人なのか「模範的でいなければいけない」ような呪縛で抑圧されていて、彼自身苦しんでいる。
彼の性格や、本当は変わりたいと思う気持ちが悪いやつらに見透かされてしまい蟻地獄にどんどん引きずり込まれていく。
どこにつけ入られそうな材料があったかなと思い返すと、
イタリアで演奏を聴いている最中、フラッシュ&音付きのカメラで撮影している人もいて、妻のルイーセもこっそり撮っていたが、ビャアンはちらちら気にしつつもちゃんと演奏を聴いている…だったり(あのときパトリックと目が合っている)
娘のなくしたうさぎのぬいぐるみを異国の街中なのに探し回ったり(パトリックは驚いていた)
「自分でこうだと決めて行動する人じゃないんだろうな」とパトリックにバレていき、ある意味着実にテストをクリアしていったんだろうなと思った。
途中他人の家でセックスするシーンだけ謎だったんだけど、トークショーで氏家さんが触れていたように、デンマークって幸福度ランキングでは世界1位でありビャアン一家は都会のタワマン暮らしではあるけど、実は裕福な暮らしと幸福とは結びついてなくて、抑圧されて形成した生活に幸せを感じてなかった説は確かにあると思った。
セックスシーンとの関連を考えると、娘も一緒のベッドで寝る習慣であることなどからしばらくセックスレス状態であったとも想像でき、パトリックとの出会いによって扇情されたと解釈できそう。
娘の泣き声には抗えずうさぎのぬいぐるみを取りに帰るような父親が、セックス中の泣き声には無反応。たしかにパトリック夫婦の狂い方なら、娘を渡されたと認識してもおかしくないかもしれない。

■パトリックのキャラクター
パトリックという人はむちゃくちゃで面白いですね。
ビャアンが真人間であろうと自制する自分に苦しんでいると聞くと、パトリックは共感したように開放できるお気に入りの場所を教えてくれるシーンがあるが、
ここちょっと面白いなと思ったのは、パトリックもパトリックで、実は彼自身も真人間であるために抑制をしていて苦しんでいるんだと思った。
だから、パトリックなりにビャアンに一定の共感をしたのは事実だと思うけど、
ところがビャアンとパトリックとじゃ地の人間性が違うので、2人の思っている真人間の範囲が全然違うから、
パトリックが精一杯抑制している状態もビャアンからすると「なんか自由でかっこいいかも!!」ってなってるのだと思うと面白かった。
(パトリック一家の思ってる「快適」とビャアン一家の「快適」が噛み合ってないようなのはセリフにもあったと思う)

パトリックは根がサイコパスなので、酔っ払ったらそりゃ他人への配慮なんて鈍感になるので音楽バキバキにかけるし、酔っ払ってなくったって空気読めないから勝手に自己紹介始めるし、ダンスが気に入らなくて客人からもらったマーメイドのマグカップを叩き割る。
でもそれが、パトリックの中ではギリギリで演じている真人間だと思うとかなり鳥肌たつ状況だなと思う。

(追記)
これは勝手な予想だけど、
パトリックの素の音楽の嗜好は、きっと車で爆音で流していたようなタイプのロックが好きで、
弱みを見せたビャアンに対して車で歌って聴かせた穏やかな曲はおそらく、営業でいうクロージング、最後の罠にかけるためのもうひと押しの「嘘」…じゃないかなと思ってしまった。
そんな優しい曲好きでもないけど、ビャアンに最大限に頑張って寄添おうとした結果、ドンピシャでささる歌を選曲したのではないか。(もしかして、似たような一家を狙っているから決まりの殺し文句みたいなものかもしれないけど)

(追記)
■カリンのキャラクター
映画鑑賞後、寝て覚めて考えるとカリンについて考えることが増えてきたので追記します。
美人だし、パトリックのむちゃくちゃに対して怒りを募らせるビャアン一家に対し、ある意味「優しい理詰め」で黙らせる、有能な援護隊長という印象があった。
パトリック一家の客人へのもてなし方は不躾である部分もありつつ、
ビャアン一家にも夜中セックスしたり他人の家で自分のタイミングでシャワー浴びておきながら「歯磨きしながら覗かれたかも!」と怒りだしたり、イノシシ肉のくだりでは後出しのような怒り方であり完全には庇い切れない部分があり、カリンはそれを丁寧に拾い悲しそうな表情で畳み掛けていく。
彼女がいて初めてこれまでの犯行が成立しているようにも思う。

だけど少し考えると、カリンは実は全く戦略的でない可能性もあると考えてしまった。
実はカリンは、純粋に今の自分たちの行いに対して他人が違和感を感じていることが理解できず、
カリンの中で真剣に自分たちの行いについて、本当に悪なのかを理論建てて考え重ねた上でビャアンたちに訴えた可能性もないか?
トークショーで平山さんが、パトリック夫婦は数々の犯行をしてきているからああ言われたらこう言うの問答が仕上がってるように仰ってたけど、
その犯行の積み重ねでもありつつ、実はかなり本心での自問自答を彼女たちは繰り返していて、それでも「我が家のルールではこれが正常だし快適」と思ったからこその悲しい表情だったのかも…と思った。
だし、だからこそ、原題「Speak no Evil」なのかなと思った。

■環境は違えど同じ悩みをもつ一家
そりゃ都会ではパトリックたちは生きていけないよな。と思いつつ、
思い出したのは、居酒屋でチームビルディングというワードについて辟易としているとビャアンか誰かが話していたこと。
パトリックは無職で男性の声だったのでビャアンのセリフだと思っているが、
つまり環境や性格、人間性に違いがあるように見えても、ビャアン一家とパトリック一家は「他人との共存」においては悩みを抱える人たちである点では同じなんだよなと思った。

■映画宣伝について
これを書いておきたかったのに忘れてた。
チラズアート製作ホラーゲーム「新幹線0号」でプロモーションしていて、欧州ホラーのわりにああいうところに広告をだすとは…とその気概にわりと感動しまして、ぜひ成功してほしいと思ってました。
ホラー映画だから単に親和性が高いという意味で良い場所を狙ったなぁと思ってたけれど、
実際作品に見てみると、人間のなかのふとした違和感に気づいていくみたいなストーリーが8番出口のシステムとも近い気がして、このあたりも意図してかわからないけどかなりセンスいいなと思いました。


なんか…こんな長文でレビュー書いたことないので、何やかんや良かったかもしれないです。
監督の次の作品、楽しみにしています。