しの

ザ・ホエールのしののレビュー・感想・評価

ザ・ホエール(2022年製作の映画)
4.1
ほぼワンシチュエーションだが、まず主人公の演技というか挙措のひとつひとつに見入ってしまうし、室内に誰が入ってどのタイミングで出ていくかが作劇のスリルにも寄与していて、退屈せずに観れてしまった。そして何より、本来なら自己満足でしかないはずのあのラストに感動できてしまうのが本作の力だ。

喋る際の喘鳴の音、笑った後の胸の痛み、食事での臨死体験。日常のあらゆる瞬間において死が隣り合わせだというリアリティと緊迫感が物凄い。だから物を拾ったり落としたり、ドアを開けてピザを受け取るのも印象的なアクションになる。空間の捉え方もそうだが、やはり役者の力が大きい。

そして重要なのがこのシチュエーションの意味だ。元が舞台劇なので、基本的には主人公を中心とした室内での会話がメインだが、本作では家の外に人影を映す演出をはじめ、誰が室内に出入りするかを印象的に捉える。特に、ドアから出ていくか留まるかというアクションは、「他者への関心」が持続するか否かの揺さぶりとしてラストシーンまで機能している。

そしてそれは、主人公がなぜ娘を信じ続けるのかというドラマに繋がってくる。本当に心から信じているのか、あるいはそう信じたいからなのか。ここで「出入りする」他者の人物配置が絶妙だ。各キャラクターの行動原理が利己なのか利他なのか、という点に着目させる作劇だが、人物同士が関わり合うことでその二項対立が崩れていく。宣教師の利他心は利己に支えられているし、他者を憎悪するという娘の利己的な防衛機制が利他に繋がる。となると、「信じているのか信じたいのか」という区別にどれだけ意味があるのだろう。結局のところ、人は人に「正直であるかどうか」でしかないのではないか。そう本作は問うているのだ。

ここでピザ配達員の使い方が効いてくる。あれは残酷な結末だが、しかし彼には確かに「他者への関心」があったわけで、その最終的なリアクション含めて「正直」ではあるのだ。だから宣教師の彼にしたって、単に偽善者と本作が切り捨てているとは思えない。彼も「正直な」反応を示して退場するわけだし。

そう考えると、もはや自分のためとか他人のためとか、救われるとか赦されるとか、そういうことではないだろう。我々ができるのは、互いの正直な気持ちを何とか掬い取っていくという営みでしかないのではないか(それは『白鯨』の登場人物が鯨を追い求めるように)。他者を室内に招き入れると、彼らはそこを出入りするようになる。そういうことなのだ。

言ってしまえば、本作の主人公は人間の身勝手な性質を体現するようなキャラクターで、最期の5日間という舞台設定がそれを際立てている。彼は身勝手であり続けるし、身勝手だからこそ他者を巻き込む。でも多かれ少なかれ誰しもそうだし、だからこそそれが希望にもなり得るのではないか。その意味で、本作が回想を(ある象徴的な場面を除いては)使用せず、主人公の部屋(=内面)に他者を巻き込むシチュエーションを貫き、そこで4:3の画面に演技合戦をおさめることに終始したのは英断だと思う。客観的に過去の行いを断罪してどうにかなる話ではない。見た目で判断できることではない。

そこには自分勝手で正直な一人の人間の目線しか存在しない。そして我々もこの主人公と同じように、他者を家に招き入れては正直なものに触れ合おうとしている。その末にあの「昇天」があるのであって、究極、人生ってそういうものではないか。強いて言えば劇伴が大仰だが、しかし誠実な人間讃歌だと思う。
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