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ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 4K リマスター版のニューランドのレビュー・感想・評価

4.3
✔️🔸『ナイト·オブ·ザ·リビングデッド』(4.3) 及び🔸『クライムズ·オブ·ザ·フューチャー』(3.1)🔸『グランツーリスモ』(3.0)▶️▶️


欄を間違ったが、観たのは4Kスキャンのデジタル復元版でなく、その前のアナログベースのもの。
有難い事だが、職場に(嘗ての)映画ファンの人がいて、定期的にお気に入りのDVDを持ってきて貸してくれる。観る時間がない、といつも断るのだが、直に押し付けられるので、「いつ、観終わるかわからないよ」と言っても「いつでもいいから、さぁさぁ」となる。その人の趣味は戦争を中心としたアクションものなので、『史上最大の作戦』も割りと最近やっと観たが、最後まで何がいいのか分からなかった私とは正反対に近い。『ロッキー』等も招待券を貰った1本目しか観てないし、『ランボー』もつい何年か前、1作目を観て、こないだ4作目だかを貸してくれたのはこの人だ。ペキンパー·スコセッシ·キューブリックの暴力派?でも、私は『砂漠の流れ者』や『アリスの恋』『バリー·リンドン』といった10代に観た変化加えた日常舞台作が好きだ。今回も借りて1ヶ月が経った。が、観始めると一気だった。
この、低予算の、それまでブードゥ教儀式絡みで語られてたゾンビを、宇宙(からの人工衛星の想定外帰還)からもたらされた(付着)放射能やその類似物の拡散による、死体の脳の不可解復活、生きてる人間を喰い、またその死者も復活、人肉を求め彷徨う増殖の繰返し·集団化、といった視点から語り始めたきっかけの作だ。その観点は以後壮大化してくにしても、1作目の、シャープさ·パイオニア新鮮力は人気衰えずに、10年毎に最新技術で、オリジナルのその源まで呼び起こそうとしている。
最初に述べだが、今回のは今巷に出回ってる、ツルッと細やかな4Kデジタルスキャンの40周年版ではなく、アナログの侭で洗浄位の20周年の1988年版と、それに冒頭にゾンビ1号生誕経緯と、ラストにゾンビを悪魔として宗教依拠を訴える神父を、前作のラスト·及びその1年後のエピローグに余計に置いた30周年1998年版だ。
後者はともかく、やや滑らかさを欠いてるのが安っぽさを荒々しさに変えてる分もあるにしても、3~40年か前にTVかVHSかの貧しいトロめを観て傑作ではあるな、と思わせたのより、遥かに力を感じ、稀なる大傑作と思わせる。序盤の細かく押さえた丁寧が好感抱かせる作り、やがて広角めと傾け画面、影部とそうでない部分の不安定も力、強引なカッティング、手持ち揺れ普通、アップ入れで、単純も厳しく激しく目まぐるしく、侵入攻防を押して行く。三脚固定カットは少なめから、人物も2人から、地下に隠れてた2組5人が加わり、構図·人配置バランス·キャラの個性対比と変容、が正統的にじっくり、検証されてく。陣取るは一階か地下か、脱出か籠るか、情報を得るか遮断か、の葛藤と姿勢の入れ換わり。後半に入ると、人とゾンビ、様々な人と人の組合せ、人とドア等の仕切りや車と揉み合い、らが相互に絡み闘い溶け合うような造型とシチュエーションの渦が、強烈な厚みと流動感で続き、もしかしたらやや劣悪な面による効果の部分もあるのかも知れず、4Kスキャンではどれだけの効果が出てるか。いずれにしてもデクパージュの効果も持ちながらの、個々のイメージと現実の強烈さの直に結び付きの力が強いかも知れない。身内のゾンビ化や、ゾンビ達の喰らう姿らも、映画の枠内に収まらない表現化自体への欲求がある。全裸の女性もいるゾンビらは、イメージを狭く固定されていない。避難所へ逃げるを決める車の選択、瞬時の給油への銃の使用と·ゾンビを蹴散らす火もあるので·車への引火の危険一気増し、思わぬつまらない死に方の連続の呆気なさ、各々に生き抜く決断の生まれてく感動とそのまるで実の結ばなさ。その偶然の力もはたらいて、打ち破れないゾンビ包囲網は、眉間を撃ち抜けるライフルの名手らと弾の数で、割りと簡単に亡きものに出来てく。
空しさ·意味の無さ、それでも異様·威容だけはイメージとして残り、低予算映画によりエポックとして相応しく、連作の続く1作目として、最適の形かもわからない。スポーツライクな感動も持つ2作目、デカダンな美の3作目、この2本の傑作を導く存在であり続ける。辛うじて傑作なのではない、質的に同等か、位置的には上かも知れない。父の郊外の墓参りで、同行の兄を怪人らに襲われ、逃げ込んだ家に、住民いずも、先に避難の黒人青年、更に後で地下に2組の家族orカップルと合流。報道で宇宙衛星持ち帰りの物で、死人(の頭脳)の復活·その人喰いで仲間増殖異常事態、が、避難所へ逃げ込み·ライフルで撃滅可能を知り、軋轢·葛藤あれど、脱出に移るが。
4Kスキャン版のキメの細やかなのを観てみたい気もするが、作者はどのレベルを望んでたのか。
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その単純さ·易しさの持つ力を、新作で野心·表現共に年間トップ(近い)と評された、2作を文芸坐で、12月の半ば·終わりに観て、比較するが、映画の活力は、今の映画には認め難かった。『クライムズ~』。クローネンバーグの新作は、人間や政治のその枠内での爆発を描いて皆が公認の名作の作家となっていた彼が、単純型ストレートに、観客を捉えてく、映画の初期的ワクワク感に戻ってきた感。やや広角めの図は、怪奇映画や腐敗階層の染みやくたびれ感ある、その世界に即したトーン·美術ながら、画面の隅々まで、またデクパージュに変化球の懐ろはなく、スッキリ主調を伝え来て、気持ちいい。拘りが隠さず出され続け、映画の原点の溌剌化感がある。身体の皮膚·(新)内臓の自在切り裂き·提示·取り出し、それやその種の患者日常を担う器具の人の骨や器官が半ば幽霊化したようなイデタチの、共にぐじゃぐじゃと時に耐えられない造型と動き。これが映画だ!感。
人間が(誤って)進化もし、新しい臓器も内部自己造成もしてきてる、末世。所詮遺伝になり得ない癌細胞的な物で、その取り出しをアートとし名を成してる男と、元担当医のパートナー。臓器は、新しい器官として、循環器系や神経系にもなり得る。新臓器を登録の政府機関は怪しく、アーティストらを取込み、「内なる美」のイベントを主催したりする。そこへは狙いどおり、プラスチックを食べれる、新人類(父がつくり、母が殺した子)遺体解剖ショーが持ち込まれ、が実地に始めて行われる。がその内部はおぞましい限りで未来とは結ばらない。それは政府絡みか。只、これらに絡む接触は新しいセックスと言われ、進化絡みの為か痛覚は個人に戻ってくる。キャラや政治の何とも言えぬ不気味さを纏った、それも含め原点回帰の安心作のミート感。クローネンバーグとしては、粘っこさ·内的壮大さより、手際よさやテイストがスッキリ心地いい作、には留まってる。
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『グランツーリスモ』。昨年大晦日は仕事で、その前の土曜日は徹夜明けで10時からは映画を半分寝ながらでも見れなくはないな、と思ってると、2003年の総括でまるで聞いたことがないのが、複数の集計でベストになってるに気づく。レーサーの話か。
『第9地区』は傑作とは呼べないにしても、このタッチが組み立てられる人ならまた次を見てみたいと思わせる秀作だった。しかし、その後気にはなりつつ、1本も見なかった。が、何年ぶりかこの作家の作を見て感じたのは、所詮秀作止まりのものしか感じられなかった作り手からは、発展や維持を望めないということか。ゲーマーと現実のル・マンに至るレースの勝ち上がりの同一化、黒人のサッカーのスターの誇れる父に見離されてる·ウェールズの混血青年の信念と父との認め合い、嘗て事故によって本当の実力を測れず引退した者の·自己の再起重ねたサポート、日本の企業や風土の支え、不可抗力の観客の命奪った事への罪意識、ライバルや仲間との高め合い、というドラマ要素と、荒々しい粒子のもあるリアル感·車分解四散感覚でのゲームとの往き来CG·スピードフィットやスローや短カットらの自在組合せ·観客も含めたドキュメンタリー調·アップから動きと逆に退くとか俯瞰空撮の自在入れ方·音や音楽のミート感やキャラの各風格らの作り物は感超えたタッチやトーン、を備えても、浮わついた駆け足描写·編集の順序や詰め方の坪分からず·結果何でもいいから詰め込み、という作品の纏め傾きは、この作家が如何に劣化したかを証明するばかりか。或いはゲームの感覚によるデクパージュってこんな味気ないものか。只、客は結構入ってて、隣の席の私より年配の人は、篇中何十回も、驚嘆の声をあげてて、そっちの方に驚いた。確かに実話ベースの力もある、チーム·家族·観客や世界反応·レーススキルの交感の確度の高まりは、ストレートで感動がないでもない。先の人が、リュミエールの映画に遭遇した世界初の映画観客のように、心底驚き感動してたのはたしかだ。
今の表現と内容に、贅沢な条件でチャレンジ?した2作品だが、掻き立てるものは弱い。
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