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あちらにいる鬼のotomisanのレビュー・感想・評価

あちらにいる鬼(2022年製作の映画)
4.1
 鬼のいるのがあちら側というわけで、こちらにいる「わたし」と鬼とは決して交わらないのが私の「わたし」たるところである。しかし、わたくし、みはるを追う白木鬼を拒めないみはる自身もこころの内に鬼たる白木を飼って愛育しているわけで、私みはるは私であるとともに陰に白木を追い慕う鬼でもある。
 この内なる鬼を殺すべくみはるは出家を試みるのであるが、豈はからんや、実の白木が出家後7年で落命してしまう。虚の白木を飼い続けるはるみはその後40年、計99年を生きるのだが、これをどう捉えようか。

 交わらないといったが、実は交わりたくないのが鬼であって、これは私を追いかけ「悪さ」を仕掛ける。こころを乱し矛盾を強い対立を呼び人を遠ざける。そういえば水子の霊が三途の河原で母のため父のため石を積むのを鬼が襲って積み石を蹴散らすのも、親の業を自身が晴らさぬ姑息さを痛罵するものである。しかし、子には産もうと企図した親に対する恩愛が必ずあって、それが「親のため」となるのである。わたくし水子を殺した親は恩ある相手と同時に鬼でもある。
 わたくし、はるみも鬼の白木を愛すると共に世間の常識では不倫に応じる悪人でもあり、白木の妻には夫をこころの中に飼い続ける鬼である。では、わたくし、妻は追いかけられ、白木とわたくし、その妻と堅守すべき娘たちという孤島に追い詰められているのか?あるいは、戸口の外に鬼である、夫の不倫相手を「待たしている」だけなのか?
 待たす以上、然るべき取り扱いを決めて鬼である不倫相手を通常の客として扱う用意ができている、つまり経験の積み重ねによって、かつて誰からか以て「傲慢」と評されたような「対鬼外交」の備えがみはる鬼に対してもあると感じられる。これもまたどう捉えようか。

 妻にしてみれば鬼は一匹だけではない。すべてを知りつつ、「ただのふりん」と惚けて止まない夫、白木はこの白木的平常を以て迫る鬼に等しい。「である」ではなく、「等しい」とするのは、みはるが内なる白木に壁を設けつつも拒む事に凡そ失敗を続けるのに対して、妻はむしろ、この鬼に等しい夫と同一でありたいと願っていると感じられるからである。
 ここに、夫は鬼であり、わたくし妻でもあるということになる。妻において、そこが鬼の鬼ではない奇妙さがある。ちなみに妻も小説家としての高度な素養があり、夫の名で公表した著作が夫、白木の小説家としての新境地を開くものとして好評を博してしまうという、夫白木の世界の外延で開いた精華が実は妻の創作世界であったと世間に気づかせぬほどに夫白木の創作世界をよく咀嚼し、換骨奪胎する事で妻=夫という綯交ぜを実現させている事が示されている。
 そこでは夫の吐いた数々の噓もまた飲み込んでの同一という事がなんだか気持ち悪く横たわってもいる。その嘘とは夫の女性遍歴の皮切りから始まるもので嘘で吐き固めた上の楼閣の住人白木が死んで地獄の鬼に舌を抜かれるなら念の入った話である。

 この映画の原作は白木の娘に当たる人が記したものであるが、してみると当時の事の多くは母親、白木の妻、あるいは出家したはるみなどからの伝聞に基づくものだろう。かくある大人たちの作者に示した外面と作者の直感が母親とみはるの緊張を押し隠したような好一対として描かれるべきことを望んだのかもしれない。
 その点、緊張感とは映画を見る我々が、あって当然と思い込んだだけかもしれない。しかし、作者はそれを見越しているだろう。同時に、母(妻)とみはる、二人の会合を回想して、そのような緊張含みの内実を娘たちに気取られまいと配慮した二人の労をねぎらう積りもあっただろうか。そのとき、かつては感じなかったふたりにおける鬼の潜伏、さらには二者それぞれのその内なる鬼を取り鎮める自らに向けた強圧と懐柔の努力、いわば内なる敵国外交の綱渡りを推量したことだろう。
 あのとき二人にそれぞれ鬼がいたと知り、反作用の様に今また作者には、当時は計り知れない二人の葛藤が鬼のように襲ってくるのだ。これは推量が醸した姿の捉えようのない鬼である。確かにいるはずであるが、その正体は二人の平静さという外面如菩薩に覆い隠された正反対の何かかもしれない。
 そんな謎めいた鬼におそらく恐れるのではなく、それこそ赤鬼に泣く青鬼のような、あるいは青鬼を憐れむのか何なのかする赤鬼のような奇妙なことを想像するのかもしれない。なんにせよ、娘に鬼二匹は明快なことは何一つ語れなかったのではないだろうか。三者がそれぞれに鬼となった顛末を白木を男とも夫とも捉えられない娘に向かって何を告げることができるだろう。
 言葉を尽くすことの難しさというよりも、言葉の元となるこころが凍結してしまったからである。これは、はるか昔に実の白木の死がもはやそのはた迷惑な命をふたりのこころに吹き込むことが無くなっているからである。この生きてはた迷惑な存在が唯一よくあったとすれば、短命に終わって多くの記憶を凍結死させた事であろう。しかし、厄介者を挟んだ二人の女がどこか白木という鏡に映る自身の像に思えてくるような哀しいようなうれしいような絵に見えたかもしれない。

 すなわち白木という厄介鏡に映る事に「ほれた」?でなければなんだろう。白木に例えば表現者として一面において匹敵するわたくし等おんなふたりでなければわからない境地であろうか。だが、その「ほれた」はまず白木に対してであると共に「わたし」にでもあり、対蹠点の鬼についてもそうなのか?それが白木を介して対面しておんなふたり互いが自分と同じく思え、その時厄介者白木も解消され、三者のちょっと嘘っぽい解脱が生じるのかもしれない。
 そう嘘っぽい。解脱と感じこと自体が惑いの裏返しで求道者にとっての最悪の落とし穴であるようにも思える。なるほど、はるみが99年を生きなければならないとはそういう荒れ野をゆくのを強いられ止まれない事だったのかもしれない。そんな姿を傍目にしながらまた、そのおかげで作者は新たに底知れない想像界を拓くことができるのである。その底知れない二人と厄介者を背負い、自分の「ほれる」べき相手を見失うなら、それもまた「長生き」に至る災厄を引き摺る桎梏かもしれない。
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