Kuuta

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいのKuutaのレビュー・感想・評価

3.2
時期によってはどハマりしていたかもしれないが、ノレませんでした、、

話すことで誰かを傷つけるよりも、ぬいぐるみと話す方がいい、というサークルに集まった大学生の話。

私は「ぬいぐるみと話す人の気持ちはわからないでもないが、話し出したら誰とも話さなくなるし自分は絶対やらない」というスタンスなので、イベントサークルで自分を押し殺してしんどい思いをしつつ、「ぬいサー」の穏やかな人々を見守る白城(新谷ゆづみ)の立場が一番しっくりくる。

映画は白城のモノローグで終わり、ポスターでも彼女だけがカメラを見ている。作り手が主人公たち「ぬいサー」に入れ込み過ぎず、俯瞰した白城目線のバランスを意識していたことは読み取れる。

それぞれが抱える「生きづらさ」に切実さを感じる人はいるだろうし、あんまり書くとおっさんが若者を説教する感じになるので腰が引けてしまうが、映画を見る自意識がこの映画はダメだろう…と言っている。

「ぬいぐるみの主観ショットに見つめられる私」を挟みながら、自分の「生きづらさ」を見つめ直していく。最終的に主人公2人が「対人の切り返しショット」を完成させ、思いを吐露し合う。

あらすじからこの展開は容易に想像できるし、映画として小さ過ぎないか、と思う。特に前半部、あくまでぬいぐるみやぬいサー民との対話を通して問題意識を紐解く展開は、ぬいサー民の心理としては分かるが、映画としては内に籠り過ぎているように感じた。白城の存在が人間関係に揺らぎを生んでいるものの、彼女も外部とは言い切れないし。それでいて最後に日本社会について語り出すのには、飛躍というか違和感を覚えた。

(例えば学祭の日はそもそも大学に来なかったぬいサー民が、今年は新しいぬいぐるみを作ってみよう、と決めるが、これもサークル外部に公開するものではなく、部員の恋人に見せる程度で終わる)

「嫌なこと言う奴はもっと嫌な奴であってくれ」というセリフは、ぬいぐるみに内心をぶつける人の微妙な狡さを示しているし「優しさと無関心は似てる」も同様だ。この辺をもっと掘り下げて、自問自答のループからいかに外に目を向けるかを細かく描いて欲しかった。そうすれば、最後の切り返しがもっと痛烈なものになったと思う。
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