Kuuta

ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワーのKuutaのレビュー・感想・評価

3.3
いつものことながらいろいろ考えてしまった。細かく書いているので見に行く予定の方はスルー推奨です。

映画内の男性の眼差し(Male Gaze)がいかに女性をモノ化、客体化し、女性の社会的地位を貶めてきたかについてのドキュメンタリー。論文を書いた映画監督でもあるニナ・メンケス氏の講演映像を軸に、過去の映画を例にした作品分析が行われる。

私なりに整理すると、

①異性愛者の男性監督が圧倒的に多く、名作のほとんどが女性を一方的に見る映画だったこと
②そうした監督が女性を性的に描く手法が「クローズアップによる肉体の分断、舐めるように追うパン=モノ化、客体化」や「スローモーションや平面的に見えるライティング=非現実化」に偏っていること
③男性監督の②を女性が内面化し、女性監督の男性、女性描写も男性的になってしまうこと(キャスリン・ビグローの「ハート・ロッカー」、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」)
④ ①〜③が業界内の女性の労働上の立場の弱さや性暴力に繋がっていること

④については理由を単純化し過ぎる方が問題だとも思うので、そういう見方も出来るかな、くらいに受け止めたが、②と③の指摘は全くその通り。性を魅力的に描くのが悪いのではなく、映像作品における性描写が画一的過ぎる問題

・もう少し丁寧に説明したほうがいいのでは、と思ったのが、「カンヌの出品作のほとんどが男性監督で、『良い映画から選んだらこうなった』という主催者の説明は多様性を理解していない」と監督が憤るシーン。生物学上仕方ないなどと、マジョリティがマジョリティの論理で居直るのが問題、という話で、何ら変なことは言っていないのだが、②③の作品論が続いていた中で、①に属する普遍的なマイノリティ論が急に入るので、ここだけ切り取って文句を言う人が出そうだなと思った。

・②③を踏まえ「アニエス・ヴァルダやアケルマンの女性は主体的」「『燃ゆる女の肖像』は客体化されてきた女性が主体性を得る話」「マンディンゴの女性は黒人男性を客体化してセックスする」「ブレードランナーのデッカードが無理やりレイチェルを襲う問題」といった指摘が入るが、作品分析に目新しいものは少ない。

ヒッチコックなど古典ハリウッドから「パリ、テキサス」「バッファロー'66」「レオン」やタランティーノも槍玉に上がるが、この辺の作品の歪みを無自覚に観ている人って今の時代いるのだろうか?今さらキム・ギドクを出されても「まあ、うん…」としか思えなかった。

・「性的搾取だと受け取りかねない人がいる」のが問題であり、男性の私の感想が議論の外にあるのは承知の上で書くが、あらゆる作品を②の基準で切る分析に雑さを感じる場面は何度かあった。

キャリーのオープニングでキャリーが気持ちよさそうにシャワーを浴びる場面。確かに②に類型化された裸のアップや柔らかいライティングに該当する。ただ、「性的抑圧と解放」という、キャリーという映画の根幹に関わる描写ではあり、シシー・スペイセクの性的搾取としか見ない分析はやや偏ってはいないか。

監督が「こんな作品がアカデミー賞なんて」と1番厳しく切り捨てるのが「ブレードランナー2049」で、アナ・デ・アルマス演じるAIのキャラクターが女性のモノ化だと指摘する。しかし、あの映画は「モノ化された女性と愛し合うフリしかできない人造人間男のどうしようもなさ」を描いていたはずで、男の身勝手さ込みでモノ化しているのでは?と思った。

・多くの人に今作の問題意識を伝えるには、たぶん作品を通した方が良くて、例えばおっさんの股間のアップ&スローモーションから始まる「プロミシング・ヤング・ウーマン」は②のカウンターとして完璧だったなと改めて思う
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