皆で集まってぬいぐるみに悩みや楽しかったことを吐露するサークル=ぬいサー。最低限のルールはイヤホンをしながらぬいぐるみと会話をし、側にいる誰かの会話を聞かないこと。
正直かなり色々と引っかかる。
言わば「悩んでる」ことだけが応募条件のコミュニティーなので、仮に自分がその場にいたら全てに気づかいがともなっているように見え、「本音」がどこにも存在しない不健全さを感じてしまいそう。
逃げ出す先としての駆け込み寺的な存在ならまだしも、大学のサークルなので入るのは自由→キャンパスライフ未経験でもういきなり生きづらいのか?という違和感もたぶん飲み込めない。だからこそぬいぐるみと話すんだろうけど。
じゃあ、なぜ家で1人でやれることなのにわざわざ集まってやってるの?となってしまう。嫌な方向に想像を膨らませると「ぬいサーに帰属している=優しくなれた」という陶酔がまったくないと言えるか?というあまりよろしくない邪推が顔を出してくる。性格の悪い感想だとは思うが、でもでも個人的にはそれこそ人間関係だろとも主張したく。そういう打算や強かさを認めない雰囲気にヤキモキもする。
しかし今作がお見事なのは、これら疑問やその回答をキッチリ丁寧にキャラクターに喋らせているところ。しかも、イベサーと掛け持ちし、ぬいサーとドライに関わる白城という魅力的なキャラクターにその展開のほとんどを担わせているため、多くの人はそこに感情移入しちゃうんじゃないだろうか。
そして物語自体もそんな白城の、ぬいサーを突き刺すようなモノローグで幕を閉じる。生きづらい人々に寄り添うリラクシンな物語に見せかけ、社会から逃げるのか?歯向かうのか?折り合うのか?の生き様と苦悩をきっちりと描いている。
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ただ、残念ながらどうしても主人公の七森が好きになれなかった。作中で「やさしい」と称される彼だがそうは思えない。そもそも優しさとはそれを享受した人物による主観。つまり優しいとされる主体の何らかの意思が伴うものであるはずだが、彼は意思表示そのものを嫌っている。
「打たれ弱いのは悪い事じゃない。打つ方が悪い」
「嫌なことを言う奴はもっと嫌な奴であってくれ」
作中で印象的な上記セリフに表れているとおり、自分に加害性があるとは微塵も思っていない。にしては自身がアロマンティックだからといって、恋バナを「僕はそういうのはないんで」と吐き捨て拒絶する態度や、白城に対しての無礼すぎる告白は全くもっていただけず、攻撃そのものであるように感じた。
終盤で「対話=意思表示の大切さ」に気づきかけるという希望も感じるが、もしタイトルがミスリードでないのであれば「ぬいぐるみとしゃべる=自分の意思を誰かにぶつける、つまりは傷つけることも助けることも徹底的に避ける=やさしい」ということになり、それは本当にそうか?とモヤモヤが大きく残ったまま終わってしまう。そこまで考えてしまうほど深みのある作品なのは間違いないのだけれど。